「おやじ殿」私がそう呼びかけるのは、生涯一度きりのことであります。
戦後70年、貴方の命日、昭和19年5月10日から71年、私はまもなく73歳になります。貴方の戦死を知って、故郷の人々は、残された私に、『お父さんがいなくて、寂しかろうね』と小学校の行き帰りに、とても優しく声を掛けてくれました。
貴方の出征の日に、お腹を大きくした母上に、『産まれてくる子が男だったら、この名前をつけるように』と、相知駅で見送りを受ける駅のホームに、『安幸』と大きく書いてくれたという、ばあちゃんの口癖を聞きながら育ちました。
ここインタンギー地区で、若くして逝った戦友の方々とともに、23歳の貴方は如何に、祖国のことを思い、家族の行く末を案じられたことでしょう。
しかしながら、どうぞご安心ください。祖国や故郷は、日本の敗戦から不屈の努力により、いち早く復興の道を辿り、今では世界のリーダー国として、ここビルマやアジア諸国の安定復興に手を差し伸べるまでになっております。
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私も、故郷相知の青年団長を務め、一方では公務員として地域振興の一端を勤め上げ、今は、戦争遺児の遺族会の役員として、ふるさと再生のリーダー役を務めています。
祖母イソヲは30年前に、おふくろのハルエも73歳でそちらに逝きました。私は29歳で佐賀からの嫁を迎え、男女一人ずつの子をなしましたが、長男は東京に就職し未だ独身で、今では、長女が二人目の男の子を産んで、ふるさとのわが家で子育てに専念しております。
つまり、貴方にとっては二人のひ孫がいるわけで、もうすぐに、幼稚園に入ることになります。
ようやく、この地に立つことができました。一度も抱き上げられたことのない私も、貴方の三倍もの人生を過ごすことができましたが、ふるさとの水や小石、お酒を献上して、残された人生を貴方の代わりにふるさとのために生き抜いてゆくことをお誓いして初対面の挨拶といたします。
平成二十七年 二月十六日 サガインにて
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