私の夢あれこれ

私は病気が直ったらやりたいことはいくつもあります。ここではその中でどうしても
これだけは 実現したいというものを紹介します。
私の病気を治すことは、現時点ではできないことはわかっています。でもこれだけ科学の分野が 飛躍的に伸びていますので、どんなに難しい病気でもいつかは治せる日が必ず来るでしょう。 私はその日が私が60歳になるまでに来ることを信じて生きていたいと思っています。
夢を抱く事で人は強くなれるはすです。『春の来ない冬はない。春は必ず来る』 『夢は必ず実現する。ただ時間がかかるだけ』との言葉を信じて、気持ちを強く持って、 夢を抱き続けていたいと思っています。

準備期間は2年はかかる?
ALSという病気が治る日が来て病気の進行が止まり病気を治せたとしても、そしてその上で毎日リハビリに 努めたとしても、まともに動けるようになるまで2年はかかると覚悟はしています。この2年間のリハビリの スケジュールは次のように考えています。
最初の三ヶ月は呼吸機能と首の筋肉の回復を図り、次の三ヶ月で立位保持訓練・次のふた月は椅子から 立ち上がる訓練をし、次のふた月で歩行器を使って歩行・次のふた月で杖を突いての歩行訓練を繰り返す。
1年が経過したら自分ひとりで外を歩き始める。まずは家の周りから歩き始め、なだらかな坂道・階段へと移り、 それが安定してできるようになったら、近くの唐船城公園や歴史と文化の森公園のような小山から登り始め 人形岩や腰岳や国見山に登る。それができるようになったら黒髪山から青螺山を経て大川内山まで縦走したり 大宰府の宝満山まで足を伸ばすつもりだ。その間会社時代にお世話になったり心配かけた方の自宅を自転車で 訪問したいと思っています。

屋久島の宮之浦岳に登る
若かりし頃、会社の先輩と二人で休みを利用して三泊三日(車中1泊)で屋久島の宮之浦岳を目指したことが あった。後で考えれば無謀なルート設定と無茶なスケジュールだったが、自分の体力を過信していた我々は その事に気付かなかった。幾つかあるルートの中で我々はあえて少し難しいルートを選択した。
その結果私たちは道に迷い遭難しかけた。お昼前に屋久島の宮之浦港に着きすぐさま山に向かって出発、 その日のうちに山小屋に入る予定が山の中で日が暮れてしまった。しようがないので少し広い所を見つけて 野宿をすることにした。屋久島の夜の山の中は本当に暗い、明かりを消すと真っ暗になり隣にいるはずの 先輩の姿もほとんど見えないほどだった。その上夜の山は静まり返り、遠くの方からサルか鹿かは 分からないがただ獣の声が聞こえてくるだけだった。私たちは厚着の長袖を重ね着してさらに身体に新聞紙を 巻いてシュラフに包まれ満天の星を眺めながら寝た。前日が夜行列車だった私たちはすぐに深い眠りに 落ちた。

屋久島の地図(ホームページより)
何時ごろだっただろう、そばで誰かが歩く足音が聞こえたような気がして目が覚めた。辺りを見回すと 人影らしき物が揺れている。急いで私のすぐ横で寝ていた先輩を揺り起こし「人が歩いている。」と告げ、 二人で「おーい、おーい」と何度も叫んでみたが何も返事は返ってこなかった。あきらめてまた眠りに落ちた。 翌朝5時前に目を覚ました。薄明かりの中で目を擦り擦り見ると、昨日人影らしき物が見えたあたりに タオルが掛けてあった。恥ずかしかった。
それから二人で朝食の用意をしていると小雨が落ちてきた。そこで急いで食事を済ませレインコートを着て すぐに出発することにした。進むは獣道、笹を掻き分けながら尾根らしきところを進む。時間が経つにつれて 少しずつ霧が濃くなってきた。そんな時もようしてきた私は、先輩にその場で待ってもらい少し離れた木の 陰で用を足すことにした。あたりはシーンと静まり返りただ下の方から滝のような水の落ちる音が聞こえる だけだった。用を済ませて立ち上がると先輩の姿がどこにも見えないほど霧が深くなっていた。私は大声で 先輩の名前を呼んだが、声はすれども姿は見えずで先輩の影も形も分からなかった。そこで先輩の私を呼ぶ 声だけを頼りに声のする方へと進んでいった。その時の私は遭難するよりはもう山を降りようと半分以上 考えていた。その時私の目の前に昨日泊まろうと思っていた山小屋の名前を記した道しるべが現れた。 私は喜び勇んで先輩に知らせ今度は先輩が私の声のする方に移動して来るように頼んだ。先輩が私のところに 着いた時霧も晴れてきて、目の前に頂上はどこにあるか分からないほどの大きな山の斜面が現れた。
それからの私たちは先人が木に巻きつけてくれていたテープや紐を目当てにして先を急いだ。坂は急だったが 不思議と疲れは感じなかった。

歩き始めて6時間ほど経った頃だろうか、一山越えたところで幅が10mほどもあろうかという程の川に ぶち当たった。その時初めてこれが『沢』と呼ばれているものだと悟った。それまでの私は沢とはもっと 小さなものだとばかり思い込んでいた。この沢の岸辺で昼食を作って(ラーメン?)摂り、それから沢を 渡って沢に沿った獣道を登って行く。もしテープの目印が木に結わえてなかったらここが登山道とは 思えないほどの藪の中の道だった。獣道を藪を掻き分けながら一心不乱に登って行く。いつの間にか 沢は消え水の音も聞こえなくなっていた。
この獣道を3時間ぐらい登っただろうか、尾根まで登りついた時、待ちに待った道しるべが見えてきた。 それは右宮之浦岳・左山小屋という道しるべだった。ここで我々は大いに迷った、このまま宮之浦岳に 登った方がいいのかと。この時間なら宮之浦岳には確かに明るいうちに着けるはずだ。。でも宮之浦岳の 向こうの山小屋に行くにしてもこちらの山小屋に戻るにしても着く頃には真っ暗になることは明らかだった。 それどころか下手をしたら今夜もまた山の中で野宿することになるかもしれない。そう考えると宮之浦岳に どうしても行きたいという強い気持ちは働かなかった。私たちは明るいうちに手前の山小屋に入ることを 選択した。
山小屋に着くと私たちは晩飯と宴会の準備を始めた。もう食べ物を余分に残す必要はなかった。明後日は 仕事がある。明日朝6時前にはこの山小屋を出て3時頃のフェリーに乗り屋久島を離れる必要があった。 そうしないと明日中に福岡には着けなかった。ここで出来るだけ食べ物を減らしリュックサックを 軽くした方がよかった。私たちは晩飯を済ませると焼酎のお湯割り片手に反省会を開いた。もうこの焼酎も おつまみも食べてしまっていい、そんな思いが私たちが酔っ払うのを早めた。そんな時別のパーティが この山小屋に着いた。それをきっかけにこの宴会兼反省会をお開きにして眠ることにした。私たちはすぐに 深い眠りに落ちた。
我々は宮之浦岳を目前にしながらも目的を達する事ができないまま山を降りた。きつく悔しくてその上 結果としては寂しい3日間だったが楽しい3日間でもあった。その日からいつの日かまた宮之浦岳に登る事が 私の夢となった。病を患い動けなくなった今もその夢は捨ててはいない。


いつの日かまた家族みんなでそれが無理なら息子たちと3人で屋久島の宮之浦岳に登るつもりだけれど、 その時のスケジュールとルートの設定はもう出来ている。
前日に屋久島に入り民宿に泊まる。そして、

[1日目]朝8時頃民宿を出発し屋久島循環バスで安房まで行く。安房から登山開始。
安房-(14km 4:00)-屋久杉ランド-(2:00)-淀川登山口-(0:40)-淀川小屋
所要時間:約8時間、屋久杉ランドに着いたらすぐに民宿で作ってもらったおにぎりと(インスタントの) 味噌汁を作って昼食をとる。
晩飯は、レトルトカレーとフランスパンと野菜サラダ

[2日目]朝7時、淀川小屋出発、この日は屋久島の天空を味わうコース
淀川小屋-(1:00)-高盤岳展望台-(0:15)-小花之江河-(0:10)-花之江河-(0:20)-黒味岳分岐-黒味岳-黒味岳分岐- (0:30)-投石平-(1:00)-翁岳分岐-(0:20)-栗生岳-(0:15)-宮之浦岳-(0:15)-焼野三差路-(1:00)-永田岳-(1:00)- 焼野三差路-(0:30)-平石-(1:30)-第一展望台-(0:20)-新高塚小屋
所要時間:約10時間、新高塚小屋着は午後5時過ぎか?
朝食は釜飯ご飯と味噌汁、昼食は永田岳で棒ラーメンとフランスパン、晩飯はご飯と魚の干物・ 焼きソーセージと味噌汁

[3日目]朝8時、新高塚小屋出発、この日は屋久島の自然を楽しむコース
新高塚小屋-(0:50)-高塚小屋-(0:15)-縄文杉-(0:30)-大王杉-(0:40)-ウィルソン株-(0:20)-大株歩道入口- (トロッコ軌道跡 1:10)-楠川分かれ-(0:60)-辻峠-(0:20)-白谷小屋-(1:00)- 白谷雲水峡-(1:00)-楠川歩道入口-(1:00)-楠川
所要時間:9時間半、民宿着は6時頃か?
朝食は釜飯ご飯と味噌汁、昼食はトロッコ軌道跡の横のどこかの開けた場所で摂る、朝食の残りの釜飯ご飯の おにぎりとラーメン

[4日目]午後3時頃まで自転車?で島内観光(もののけの森と温泉にはぜひとも立ち寄りたいが)、その後 フェリーで屋久島を離れ鹿児島中央駅からJRに乗ってその日の内に家に帰る。

屋久島の山に入る時には(野菜等の生鮮品は屋久島のスーパーかコンビにか?)次のような食料を入れておく つもりだ、
お米5合・棒ラーメン2袋(4人前)・フランスパン中1個・レトルトカレー2つ・インスタントの味噌汁6個・ 釜飯の元2つ・魚の干物2匹・ソーセージ大1と小5個・野菜サラダ1パック・きゅうり3本・漬物2袋・カリンコ梅1袋・ 飴玉1袋・小売砂糖1袋・お茶5パック・青汁3袋・粉ジュース4袋とあとカロリーメイトか、二泊三日の予定だけど 食べ物は四日分持っていこう。
あとは(買ってから一度も使ったことのない)ドーム型テントも忘れないようにしないといけないな。 シュラフにキャンプ用ガスボンベやコッヘル・着替えやタオルにレインコート・ゴミ袋やビニール袋に新聞紙と 荷物は多くなるけれど、(以前使っていて押入れのどこかにしまってある)縦型のリュックサックに入らなくは ないだろう。荷物は結構重くなるだろうが、それまでの動けなかった辛さに比べたらどうってことは ないだろうし、屋久島の自然と宮之浦岳に登っている楽しさが重さを忘れさせてくれるに違いない。
そしてこのルートで宮之浦岳に登ったら、次の年の夏には昔途中で断念したルートに再挑戦しようと思う。 この夢を描きながら頭の中に屋久島の自然を思い浮かべながらこれからも耐えていこうと思う。
(2006年6月 記)


小さな丸太小屋を作りたい
国見山系の三合目辺り、西岳に僕が20代の時に親父が買った田んぼと少しばかりの山がある。田んぼと山は 細い道(今ではコンクリートで固められて自動車1台が楽に通れる広さに広がったが)の左右にあったが、 道の左側(南側)の狭い方の田んぼと山は土手にさえぎられて見えなかった。
その小さな山の中で、親父は木を育て池を作って鯉を飼い梅ノ木を植えて梅の実を取っている。以前はこの山の 片隅でしいたけを栽培していたこともあった。ここの側には川があり夏でも木陰は結構涼しい。ここにいつか 丸太小屋を作りたいのだ。
僕の作ろうと思っている丸太小屋の大きさは、内側で4M×3Mの小さなものだ。真ん中にあたりに木とレンガで 作った火鉢兼囲炉裏を置く。梁から南部の鉄鍋をぶら下げておでんやだご汁・ちゃんこやごった煮を竹炭の 遠火でぐつぐつと暖めておく。美味しそう。
小屋の三分の一の広さのロフトを作りはしごで上り下りできるようにしたい。そこは寝床兼物置になる。
そして屋根の西側には中古かオークションでソーラーパネルを安く手に入れて太陽光発電を導入する。陽が 当たるのは午前中だけだしそれに親父の植えている杉の木に遮られて発電量は余り望めないが、小屋でいつも 過ごし訳ではないし構わないだろう。それに自然に入って来る光と炭火だけで夜を過ごすのも悪くない。 下界の人口の光に邪魔されることもなく、東の夜空にきらめく満天の星を眺めるのもまた一興だろう。
また風車と水車を作って風力発電と水力発電にも挑戦したい。横を流れる小さな川の少し上流からホースで水を 引き、発電用のモーターを付けた水車の羽に水を落として水車を回す。ホースから落ちるすべての水を元の川に 戻すような仕組みにすれば水利権の問題も起きないだろう。
山の隅で昔親父がしていたようにしいたけを育てたい。丸太小屋の床下には、梅干・タクワン・高菜漬、白菜漬に 菜漬・粕漬など色んな種類の漬物を漬けた鉢を置きたい。そして横の川の少し上流の浅瀬を利用してできれば わさびを育ててみたいものだ。

南側の田んぼ・丸太小屋と道とを隔ててさえぎる藪ぼうぼうの土手ももっときれいで役に立つようにしたい。 土手の藪を払って燃やし土壌を整備する。そして土手のてっぺんに山で採ってきた山桜を植えて桜の木の列を 作る。桜の北側の道との間のスペースには、つつじやさつき・紫陽花や水仙を植えて通る人の目を楽しませる。 反対側の土手の南側の日当たりのいい斜面には、甘夏みかん・キンカン・みかんやびわ・さくらんぼや渋柿・ ふゆ柿を植えて時期時期で小屋に行く楽しみを増すようにしたい。出来ればあいたスペースに西瓜や瓜を 植えられたら楽しみは更に増すだろう。ついでに梅ノ木の横に桃の木も植えたらどうだろう。考えれば 考えるほど楽しみが増してくる。
米はもちろんのこと麦やそばも作りたい。でも田んぼをあんまり酷使すると痩せてくるだろう。それを 防ぐためには、山の落ち葉を拾い集めてきて腐葉土を作って撒かなければ。灰はわらを燃やしたり囲炉裏の 竹炭から出る灰を供給すれば何とかなるだろうが、田んぼの土壌に栄養分を与えることは大変なことだろう。
でもそれもまた楽しからずや、だ。
自然の中に身をゆだね季節季節の花やみどりを愛で、季節季節の野菜や果物を喰らいながらひとりでもしくは 妻と二人だけで鳥や虫の声を聞く、これもまた一興だろう。
早く元気になり動けるようになって実現したいものだが・・・・・。
(2006年7月28日 記)