家族揃って秋真っ盛りの九重へ ドライブ in Nov.2006

11月5日日曜日、快晴。絶好のドライブ日和。
今日家族で九重までドライブに出かける。今回一緒に行ってくれるのは、いつも通院・レスパイトで入院させて もらっている病院の看護師OさんとTさん、僕にしてみれば気心の知れた二人だ。九重ドライブは元々は ミヤマキリシマが咲き乱れる6月初旬、九重山開きの頃に計画していたことだ。ところが前日の夕方になって 僕が急に発熱し流してしまった。その事もあってか僕は今回の九重までのドライブを意識しない・ 関わらない様に心掛けていた。それで訪問リハビリのO先生に「九重には行くの?」と聞かれても 「分からない。」と答えていた。僕が本当に行けると思い出したのは金曜日にOさんから電話があって、 妻の「日曜の朝Tさんと来るってよ。」と報告を受けてから。僕は「それは心強い。」と答えた。実際僕は 出発前からOさんとTさんがついて来てくれるなら大丈夫と充分に安心していた。
5日朝5時前に目が覚める。昨晩は眠剤を使ったので久しぶりによく寝たなという感じでお目目?もパッチリ。 今朝はいつものようにパソコンをいじる訳には行かないからボーっとして時間をつぶす。目標8時出発という ことでいつもより随分早い6時前から経管開始、まぁ僕としてはパソコンさえしなければ朝の経管はどんなに 早くても一向に構わない、どうせ経管の間は寝ているのだから。
6時過ぎ息子たちもおきてきたようだ、隣の部屋から元気で明るい声が聞こえてきた。息子たちも昨晩は素直に 早めに寝たようだ。それだけ今日のドライブが楽しみだということか。
7時過ぎ経管終了、すると程なくOさんとTさん到着。いつもナース姿の二人しか見ていないから何とも新鮮。 二人ともせっかくのお休みの日なのにわざわざすみません。早速移動準備開始。僕の方からもあれこれと 指示しながら吸引・着替え・トイレ終了。Oさんから「外はすごく寒い。」の一言を聞き、素直に厚手の上着2枚と 靴下を着用。元々僕はあ暑がりで子供の頃から靴下を履くのが嫌いな子供だったのだ。それにしても二人とも 在宅での看護は始めてだろうにここまですごくスムーズに、三人の息もぴったりということか。
8時過ぎに首の装具を着けベッドか車椅子車椅子から自動車の助手席へ移乗させてもらい、呼吸器・吸引機セット・ 車椅子等を積み込みセットしてもらう。ここで少し時間を要すが、初めてだから致し方ないことだろう。 その間も息子たちは自動車を出たり入ったりとせわしなく動き回っている。やがて妻も準備が整い出てきたので いざ出発と思いきや、お姉ちゃんがまだ来ていないのかと呼びに行く。その時初めて娘一緒にも来てくれると 知り嬉しく思った。

8時40分過ぎみんな乗り込みおふくろに見送られながら出発。運転席は今日一日運転してくれる妻、助手席は 僕が、そして2列目にOさんとTさんが座り後ろの列に子供たち3人が位置する。今日は武雄・北方ICから高速に のるという。途中でやはり肌寒さを感じてきた。今日はなるほど寒いなぁと思いながらよく見るとエアコンが 入っている。今さら言うのもおかしな話なのだが、妻はエアコンを付けながら自動車を走らせるタイプなのだ。 僕は妻にエアコンを切るように促すが、「その内暑くなるから。」と通風孔は調節してくれたものの エアコンを切ろうとの意識はさらさら働かない。それどころか「上着1枚脱いだら、汗かくよ。」という始末。 いくら僕が筋肉と脂肪が落ち痩せこけているからといっても今日は厚手の上着2枚を着ている身、薄着1枚の 妻とどうしてここまで体感温度が違うのか、とよくよく考えてみると・・・・・。自動車は東へ向かって移動中、 朝の太陽は常に運転席側にある。運転席側は多分日向ぼっこでもしている気分なのだろうと気が付いた。 これでは僕がいくら寒いと言っても分からないだろうしこの状況の違いを僕が文字盤を使って説明・ 説得するには時間がかかると思い諦めた。



久しぶりに国道35号線で武雄までの車窓からの風景を味わった後、武雄・北方ICから九州道長崎線にのる。 このあたりからビーコンによる交通情報も提供されているのだが、僕のポータブルナビゲーションのビーコン 受信機は壊れているので今日も交通情報は見れないな・そういえば妻が新しい地図CDと買い換えて欲しいと 言っていたがそろそろ九州版に買い換える時期かなどと考えているうちに、自動車は多久・小城を通り過ぎて 佐賀平野へと入って行く。そして佐賀大和ICを過ぎた頃前方の山の上に気球が2つ見えた。そうだった今日は バルーンフェスティバルも最終日だった、随分前になるが子供たちを連れて見に来たがあの頃はまだ動けたなぁ とつい思い出に浸ってしまった。
自動車は金立SAを通り山の中へと入って行くが、すぐに平野部が目に入って来る。右手電波塔?の山の下には ゴルフ場がある。昔会社の営業の先輩に何度か連れてきてもらったなぁと思う。東背振ICを通り過ぎた頃から 風景は視覚に入って来ているのに思考回路が急速に低下していく。その思考回路が『朝倉市』の標識を 見た瞬間一時的に覚醒する、あの三連水車のある田園風景で有名な朝倉が平成の大合併で市になったのかと。 そしてまた停止する。僕が完全に覚醒したのは『日田市天瀬町』の標識を見た時だ。天瀬は玖珠川沿いの温泉と高塚地蔵で 有名な町、玖珠川沿いの反対側国道210号を通った時川と温泉街のビルをよく見下ろしたものだった。一度はこの温泉も 味わってみたいと思っていたがついに実現せずじまいだった。この天瀬も日田市と合併したかと思った時何となく 寂しさを感じてしまった。
まもなく玖珠SA(サービスエリア)、この玖珠SAから南の方を見ると正面に台形の形をした珍しい形の山が見える、 伐株山という。もう20年くらい前だが大先輩に誘われて九重にある山荘に連れて行ってもらった時自動車で 登った事があった。木々の間の細く薄暗い道をどんどん登って行くと突然ただっ広い草原(牧草地?)に出た。周りを 見渡してもほとんど平坦で取り立てて高い場所は見えなかった、ここがこの山の山頂という事になるのだろう。 それまでに山頂がこんなに平坦な山は見た事がなかったので良く記憶に残っている。玖珠SAでその伐株山を見えると 思うと楽しみだった。
ところが玖珠SAに入ると僕の希望とは裏腹に妻は自動車を売店の方に向けて止めてしまったので残念ながら思い出?の 伐株山は見えなかった。ここでみんなはトイレ休憩、僕は吸引をしてもらう。ここ玖珠町は何故だか分からないが 『童話の里』と呼ばれている。昔会社の同期3人と耶馬渓をそこら中走り回って最後に山道に入ったら夜中に鬼の看板が 掲げてある大通りに出た。その鬼の看板に『童話の里 玖珠町』の文字が見えた。おそらくこの玖珠SAの右端にある 大分県の大きな観光案内版にも玖珠町を童話の里として紹介してあるのだろう。
15分位休憩して玖珠SAを後にしたのだがその時ラジオから突然「九重方面九酔峡にて渋滞中」との交通情報が流れた。 最近九酔峡に『夢の大吊橋』が完成したから九酔峡の紅葉と滝のコラボレーションを見にたくさんの観光客が押し寄せて 来たから渋滞が生じたのだろう。それを聞いて九十九折の九酔峡の急な坂道を行くべきか大きく遠回りした方が良いのか あれこれと考えている内に九重ICの案内板が見えてきて、妻が「ここで下りるのか?」と尋ねる様に僕の方を見るので 「そうだ」と目で合図した。
ラジオの渋滞情報を聞いて九重ICも混んでいるかなと想像していたがあまりにもスイスイと通り抜けられたので 拍子抜けしてしまった。九重ICを出てすぐの交差点で妻が「どっち?。」と聞くので自信は無かったが「左」と一応目で 合図したのだが、進んでみると見た事のない風景だったのでちょっと困ったと思ったがナビゲーションの画面を見ると 道は街中の方に続いていたのでまあ何とかなると一安心。街中の交差点でも妻が再び「どっち?。」と聞いてきたので またまた困ったがナビの画面で交差点を二つ直進すると国道に出る様になっていたのでそう合図した。国道に面する 交差点に出た時ようやく斜めに入る見知った道を見つけた、九酔峡へと続く道だった。ところが信号が赤の間 (国道優先だから結構長かった、押しボタン式の信号かなと思ったくらいだったから)その道をじっと見ていたのだが 入って行く自動車が全然なかった。九酔峡は本当に混んでいるのかなとまた迷った。それでも国道を左折して遠回りする ルートを妻に指示した。
この国道をここから湯布院方面へ行ったのは過去に確か二度あった。だが大昔の事だし二度とも夜だったので風景は 全く覚えていなかった。ただ水分峠からやまなみハイウェイが始まっている事は地図を見て知っていたから不安は なかった。川沿いの国道を東の方に上って行くといつの間にか川はいなくなり道は森の中へ、やがて『湯布院ICまで あと5km』の標識が見えた。「しまった!、湯布院に高速のインターチェンジがあったのか!、そこで下りれば良かった」と 思ったが後の祭りだった。しばらく行くと水分峠が見えてきた。ここ水分峠が分水境になり川が東の大分湾と西の 有明海に注ぎ込むと以前聞いた事があった。この水分峠を右折してやまなみハイウエイに入った。
このやまなみハイウエイをここ出発点から走るのは初めての事、なんとなくわくわくしていた。やまなみハイウエイは 針葉樹の中をひたすら走る、この先本当に紅葉があるのかと思えるほどに。それでも大きなカーブをいくつか曲がると 正面に赤や黄色に彩られて紅葉した小さな(と僕には見えたが)山が見えてきたので僕は嬉しかったしそれに少し 安心した。その紅葉した山を横目に更に進むと針葉樹の林の間に小田の池という看板が見えた。こんなところに湖が あるのかと行ってみたい衝動に駆られたが時刻はもう正午前僕の描いていた予定よりかなり遅れていたので 言い出せなかった。やがて大きなカーブの峠を越えると右側は相変わらずの青々とした針葉樹の林だったが左側に ただっ広い高原(湯平高原?という案内板があった様な気がしたが)が見えてきた。そしてこの高原には意外なほどに 多くの?建物(食べ物屋さん?)があった。また右の林の中に入る道には『夢の大吊橋駐車場、満車』の看板が掛かっていた。 このやまなみハイウエイをもうしばらく行くと昔大先輩によく山荘に連れて行ってもらった時に見た懐かしの光景 (右に乗馬が出来る牧場、左に黒々とした土を備えた広々とした畑と一直線に並んだ檜?の並木)を見れるかなと 楽しみにしていた。ところが右側には乗馬の出来る牧場はあるにはあったが僕の記憶の中にある情景とは 似ても似つかぬものだったし左側には畑も並木も見る事は出来なかった。そうこうしている内に左前方に 九重ハイランドホテルが見えてきた。ここまで来れば長者原もすぐ、という事はぼくの懐かしの情景を見逃した事になる。 でもそれらしい風景はなかったが・・・・・。まもなく長者原が見えてきた。そして長者原の湿原の上を大勢の人たちが 歩いていたし湿原の背後の山々は一面黄色く染まっていて見事な黄葉に変わっていた(このあたりの山々には はぜや楓は少ない様で赤く染まっている木はちらほらしかなかった)。
この日の長者原の駐車場は祝日とあってかなり混んでいた。その中をソローリソロリと奥の方を目指して進む、僕が お腹に経管栄養を繋いでいる姿を人目に曝したくはなかったから。駐車場の奥まった所に自動車を止めてようやく 昼食タイム、まずは看護師さんたちに先に食事に行ってもらった。その間娘は傍にいてくれて本を読んでいたし 妻と息子たちは自動車の回りでキャーキャー言って遊んでいた。だが30分ほどたった頃から下の息子の「腹減った。」と 言う声が聞こえてきた。看護師さんたちが戻ってきたのは経管栄養(この日は250ml)がもうそろそろ終わろうとした頃、 看護師さんが「食堂がすごく混んでいた。注文してもなかなか来なかった。」と。それを聞いて妻はお昼になりそうな物を たくさん買いこんできてそこいらのベンチに広げてお昼を楽しんだようだ、みんなのワイワイという声でそういう 感じがした。昼食が終わると僕のトイレタイム、駐車場でするのはさすがに恥ずかしかったので自動車を移動させて 空き地を見つけそこで済ませた。そしてそこでこれからどうするのかここから戻るか・牧ノ戸峠を超えて黒川温泉経由で 帰るか・やまなみハイウエイを阿蘇まで向かうかを話し合った。時刻はまだ2時、それで阿蘇に向かおうと決めた。
その前に昔会社の先輩に何度もつれてきてもらった山荘を見たいと妻におねだり。やまなみハイウエイを少し戻って 鋭角に曲がって横道に入る。すると放牧された牛のいる牧場が見える・・・・・はずだったのだが、そこには荒れ果てた 荒地があるだけだった。道なりに左に大きく曲がり少し行くと林に入った所で○○山荘と掲げた小さな木の門がちらりと 見えた。が止まれの合図をし損ねたのですぐ先の横道に入る様指示を送った。この横道の横には広い畑が広がっている、 はずだったのだがこれも違った。畑の奥にはいくつかの巨大なコンテナが置いてあった。どうやらこのコンテナを 住居として利用している様だがこの様な鉄の塊は九重の高原にも九重の山々にも似合わない。ここがやまなみハイウエイから 見えないといってもこんな鉄の塊を置く事を九重町の役場はどうして許可したのか、不思議だ!。横道でUターンして 山荘の門の所に自動車を止めて妻が山荘の様子を見に行ってくれた。しばらくして戻って来た時妻は「誰もいなかった。」 「山荘の建物がところどころ新しくなっていた。」と撮ってきたデジカメの画像を見せながら報告してくれた。デジカメを 見ると土台のセメントとか窓のサッシとかが確かに新しくなっていた。それに庭の木が随分大きくなっていた。またもし 山荘に誰かいたら山荘に泊まった時にいつも書かせてもらっていた宿泊ノートを見せてもらおうと思っていたのだが。 そのノートを見れば僕の青春の1ページを垣間見る事が出来たのに。ここ○○山荘の横にはどこかの会社の 研修所という名の別荘(僕が山荘に来ても一度も人影を見た事がない)らしき建物があったのだが取り囲んだ木々が 成長して建物すらほとんど見えなくなっていた。道向こうにあった牛舎も消えていた、山荘に行った日の翌朝にはいつも この牛舎に行ってしぼりたての牛乳をもらっていたのだが。また急カーブの向こうの空き地にも初めて山荘に来た時に 散歩に連れて行ってもらったのだがここにも2棟の別荘が建っていた。この空き地にはふきのとう?があったし空き地の 奥まった所には小さな温泉が湧き出していたのだがあれはどうなってしまったのだろう。
やまなみハイウエイを南下して長者原の駐車場を過ぎた所の空き地で吸引のためにちょっと休憩、ここは大昔 料金所があった跡か。ここから九重連山を見上げると三俣山・その後方でもくもくと小さな噴煙を上げる○山が見えた。 この風景がやっぱり九重らしい。ここで九重らしい風景をすこし楽しんだ後牧ノ戸峠へと向かう。九十九折の道を一気に 登ると牧ノ戸峠の駐車場もやはり満車だった。仕方がないのでそのまま通り過ぎて後ろから九重の山々を眺めると 黄色い木々の間に赤い木がちらほら、九重連山の紅葉は後ろから見る方が良い様だ。道の所々にはこの紅葉を見るために 自動車があちこちに止まっていた。
牧ノ戸峠を下り切るとそこには白いススキが高原一面に広がっていた。思いもよらない風景が目の前に広がって びっくりしてしまった。九重には春や夏の緑が鮮やかな時期には何度も訪れたが秋のこの時期に来たのは初めての 事だったので目の前にこの一面の白い光景が広がった時には本当に驚いた。この一面に広がるススキの中を一路 南下していくとしばらくして『大観峰』の看板が見えてきた。それを見て妻が「寄っていく?」という目をして僕を 覗き込んだので「そうしよう」との合図を送った。
大観峰の駐車場もやっぱり観光客で混んでいた。案内の人に導かれるままに奥下の駐車場に自動車を止めて 看護師さんたちに車椅子に移乗してもらう。そこから久々に(9年振りか?)阿蘇の風景と空気を味わった。それから 看護師さんたち車椅子を押してもらい結構きつい坂を売店まで、そして売店から大観峰までの穏やかな坂を風景と人並みを 移動する。息子たちは土手の上やらあちこちを遊びながら先へ先へと行っていた。大観山に着くとそこから阿蘇の町並み・ 田園風景そして根子岳を中心とした阿蘇連山を眺めた。もしかしたら阿蘇を見るのもこれが最後かと思って眺めると 色々な事が思い出されてきて感慨深い想いに浸ってしまう。阿蘇は若い頃の遠出の絶好のドライブコース、それに 仕事でも何度も訪れ僕にとっては楽しくも恥ずかしくもあった所だった。大観峰で一人でしばらく感傷に浸った後 みんなで大観峰の碑の前で記念撮影、そして大観峰を後にした。いくら穏やかな坂だといっても車椅子では大変、 後ろから一人の看護師さんが押しもう一人の看護師さんと娘が前から支えてもらって進む。途中で観光客の方が その危なっかしい様子?を見かねて売店まで手伝ってくださった、日本人もまだまだ捨てたものじゃないなと改めて 思った。売店から下の駐車場までは車椅子を後ろ向きに支えてもらって降りて行った。その間僕は外輪山から 大観峰までの様子・光景をもう一度目に焼き付けた。
時刻は4時半もう帰る時間、大観峰から帰るルートは菊池渓谷を通って菊池ICから高速に乗るルートと阿蘇の町中に降りて 国道57号で熊本に出て熊本ICから高速に乗るルートの二つ、どちらを選んでも2時間もあれば家に帰り着くだろう。 しかし阿蘇の町並みと国道沿線の風景を懐かしみたいと思ったので阿蘇に降りて行く様に合図した。でもこの判断が 大きな間違いだった。外輪山を下って裏道で街中の国道に出るまでは至極順調だった。ところが国道に入った途端 自動車はほとんど動かなくなった、大渋滞に巻き込まれてしまったのだ。信号が変わっても10mと進まない、多くの人々が この祝日を利用して阿蘇の紅葉を楽しんだ様だ。これまで阿蘇へは何度も遊びに来たが外輪山の内側でこれ程までの 大渋滞に巻き込まれた事はなかった。この時点でもこの渋滞を僕はまだ高をくくって見ていた、この大渋滞もどうせ 立野の手前にある大きな赤い橋阿蘇大橋までだと。だから『南阿蘇へ』の標識を見ても曲がるようにと指示しなかった。 もし南阿蘇方面に抜けていれば俵山・西原村を経て御船ICから高速に乗る事も出来たし南阿蘇に向かう国道325号の 途中で道の右側の森を抜けて白川の左に出て大津町を迂回する方法もあったのだが。
1時間かけて阿蘇大橋の交差点を通って少し進むと僕の予想に反してまたまた渋滞にはまってしまった。ここからだと もう少し先を右に曲がって林の中を抜け川沿いに出るのが僕が知っている唯一の逃げ道なのだが、暗くなっていく この時刻に林の中や川沿いの細い道に入るために「この先を右」と妻には言えなかった。渋滞に巻き込まれのろのろ 運転のまま大津の町中に入ったのはもう6時半過ぎ、大津の町の中には昔仕事で訪れた所もあったが今はその風景を 光景を懐かしむ余裕はなかった。ただ子供たちや看護師さんたちが窓の外に浮かんでいた満月を見て喜んでいたのが 救いだった。大津の町を通り過ぎしばらく行くと渋滞もようやくなくなり自動車が流れる様になった。そして7時過ぎに ようやく熊本ICから高速道路に乗る事が出来た。後は法令の許す範囲内で妻に家までの道のりを急いでもらうしかない。
午後8時半過ぎに家に到着、看護師さんたちに自動車の助手席からベッドに移乗してもらい着替えを済ませると僕は ようやく人心地ついた。でも看護師さんたちはこれから川棚まで帰り食事を取る事になる、こんなに遅くなった事 申し訳なく思う。また僕の「九重に行きたい」という我がままに付き合ってくれた看護師さんたちそして妻や子供たちに 「ありがとうございます」心から感謝の言葉を伝えたい。
余談だが、
今回の九重・阿蘇へのドライブでは妻が一人で運転した。その上2時間以上もの大渋滞に巻き込まれ適宜休む事も ままならなかった。そのため妻が昔から持っていた首のヘルニアが悪化し翌年の1月頚椎にメスを入れ2ヶ月入院した。 妻がいないと僕の在宅は成り立たないと僕も年末から3ヶ月の入院となった。今回のドライブによる一連の出来事で僕が 感じた事、それはこれ以降妻の運転では遠出のドライブはしてはいけないと、それが妻のためそして僕自身のためだと、 あえてトラブルの芽を生み出す必要はないと、もしどうしても遠出したくなったら介護タクシーを利用するとか誰かを 雇うとかしてそれなりにお金をかけるべきだと。まあこんな僕のために無駄なお金をかける必要もないのだが・・・・・。