私が初めて違和感を感じたのは
私が自分の身体に初めて違和感を感じたのはいつの頃だったのか、自分でもはっきりとは分からない。
ただ、1994年の終わりころに体力が落ちているとは思っていた。
当時私は家電メーカーの営業として、滋賀・京都・奈良・兵庫県の系列販売会社・系列販売店・家電量販店に
家電通信機器を紹介して回っていた。毎週火曜日の朝早く家を出て関西に向かい金曜日の夜遅く帰る、
その生活を三年間続けた。当然販売目標があり辛いと思う事もあったが遣り甲斐のある仕事だった。
移動は基本的にJRと私鉄を利用ていたが、その頃から駅の階段の登り下りに段々時間がかかるようになって
きた。それまでは時間ぎりぎりに改札をぬけても間に合っていた電車を見送ることが多くなっていた。
「これはきっと運動不足だ、もうすぐ四十歳になろうとしているのだから、運動しなければ筋力が弱って
いくのも当たり前だ。」と思い、週末にはできるだけ近くの公園に行ってジョギングするか宝満山まで
山歩きをする事にした。
私にとって1月17日は
運動を始めた理由はもう一つあった。翌年の1月中旬に会社の仲間達と富良野にスキーに行くことにしていた。
私はスキーの仲間内では、「かっとび」と呼ばれていた。富良野でも惨めな姿は見せられないという思いもあった。
それが運動を続ける原動力にもなっていた。
そして1995年1月13日富良野に向って出発した。スキー場に着き滑り始めるが、しかし足の踏ん張りが効かず
滑りが安定しなくてどうしても調子が出ない、去年までの面影は全くない、「みんなについて行くのが
やっとだ。あれほどジョギングや山歩きを繰り返してきたのにどうして」という思いが強く残った。
そして悶々とした思いが3日間続き、帰る日の1月17日の早朝、衝撃の事件がテレビから流れた。
元々旅先での目覚めはグループの中でも私は特に早く、起きたらまずテレビを点けるのが習慣になっていた。
その時テレビの画面が映し出していたのは横倒しになった高架橋、音声からは阪神地区で大地震のアナウンスが
繰り返し流れていた。その瞬間私は罪悪感に包み込まれた、私の担当地区がこれほど悲惨な状況なのに私は
何故ここにいるのかと。私の会社では担当している地区に何らかの災害が起きた時には、担当者は災害の状況を
できるだけ詳しくしかもできるだけ早く上司に報告する責務を負っていた。しばらくの間はショックと罪悪感で
真っ白になっていた頭がようやく動き始めた。出発するまでの間富良野のスキー場のホテルのロビーから
各関連販売会社にダイヤルしつづけたがやはり通じない。千歳空港に着いてからもダイヤルしたが
通じなかった。その時ふとあることが頭に浮かんだ、携帯からは無理でも公衆電話なら通じるのではないかと。
そこでテレホンカードを何枚も買ってダイヤルしてみた。すると案の定通じた。電話口からは神戸市内の悲惨な
状況が生々しく伝えられた。でもその中でも幸いな事に販売会社自体にはさほど被害はないと聞き一安心、
その後他の拠点・販売会社とも連絡がつきどこも被害は小さいと聞き本当に安心し、最後に会社の上司に
それまでに確認できた状況を伝え肩の荷が下りた思いがした。次の日から一週間は出張禁止になったため、
翌週に災害後始めて神戸を訪れた。焼け野原になった長田の町を通った時、見た事もない戦後の空襲の後の
状景とだぶったように頭に浮かび、この状景は決して忘れる事はないと思った。私にとって1995年1月17日は
阪神・淡路大震災が起こった日でもあり、かつスキーと言う楽しみをも失った日でもあるのだ。
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初診、そして検査入院
その後もジョギングや山登り繰り返し続けていったが足の力は元に戻る事はなく、段々足が上がらない
ようになり何もない所で躓くようになってきた。さすがに病院嫌いの私でも自分の身体に何かが起きていると
考えざるを得なくなった。1996年4月に営業から内勤の企画関連の仕事に代わったのをきっかけに会社の
健康管理室の医師に相談し、7月の終わりに紹介状を持って九州大学付属病院神経内科を受診した。外来で
レントゲンやMRIなど検査を受けたが、詳しくしらべるためには検査入院したほうが良いと促され
10月の半ばから検査入院に入った。
入院のための道具や一週間分の着替えをバックにつめ一人で病院へと向う。私にとって入院のため家を離れる
ことは昨年までの出張に出るのと同じ感覚だった。入院中も検査のない土・日は家で過ごすために毎週金曜の
夕方外出許可を取り日曜の夕方病院へと戻った。
入院して初めの3週間は、レントゲン・MRI・心電図・筋電図・血液検査と割と頻繁に検査を受けた。しかしそれ
以後は試験薬の投薬(私の同意済)だけで、ほとんど検査の動きはなくなった。私の入院中の日課は、朝10時に
新聞を買うため1階の売店に降り買った新聞を持って10階の屋上まで階段を上がる。そしてPHSで会社に電話を
入れ変わった事や用事がないかを確認し、1時間以上かけ腕立てふせやストレッチを済ませ新聞を読む。
昼からは昼寝・散歩・読書をして一日を過ごした。でも何も検査がない日が続く事にさすがにしびれが切れ、
6週目には退院したいと主治医に訴え許可された。退院の日、昼過ぎになっても説明に来ない主治医にまたまた
しびれを切らし、看護婦を通して呼んでもらい説明を受けた(後でよくよく考えてみると、主治医は妻が
くるのを待っていたのかもしれない)。その時主治医からは、「原因不明の形成対麻痺で、5年後には車椅子
生活になる。少しでも車椅子生活を遅らせるためには出来るだけ運動することだ。」と告げられ、会社の
健康管理室の医師宛の手紙を受け取った。今考えると、その手紙の中にはALSの文字が書いてあったと
思われるが。
運動にはげむ日々
退院してからの約一年半は足の具合は少しずつですが悪くはなって行きましたが、目立つほど悪くなるほどの
事もなく仕事に支障をきたすほどではありませんでした。月に一度通院するため半日会社を休む事に
なるのですが快く許してくれました。私生活においては、二週に一度土曜日に後輩に紹介してもらった少し
変わり者の漢方医に通い、山歩きは年間50回宝満山に登ると目標を定め、また暇な時は歩くようなスピードで
ジョギングし、翌年1997年9月からはスイミングを始め、これまた目標を週に最低一度1回1000mは泳ごうと
決めました。
犠牲になったのは妻と長女でした。日曜日朝早く家を出るため、1才になる長男の世話は完全に妻任せ、
時にはようやく2歳半になったばかりの長女を山歩き(この場合は近所の余り高くはない歩きやすい山に
行きましたが)や会社・漢方医につれまわして遅くなり、妻に心配ばかりかけていました。
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腕が上がらない
4月に入ると突然腕が肩より上に上がらなくなりました。こうなると仕事の上でも支障が出てきました。
会議の席でホワイトボードに文字が書けなくなってしまいました、会議で書記を担当するのは私の職場では
営業企画を担当している私の役割だったのです。しかし書きにくそうにしている私を見て、会議に出席している
上司や仲間たちが何も言わないのにいつのまにか代わりに書いてくれるようになりました。
家でも洗髪ができなくなりましたが、浴室の床に寝転がることで何とか自分だけの力で洗髪を続けました。
床に寝転がって髪を洗っているあらわな姿は人に見せられるものではありません。
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告知
4月・5月と過ぎても九大付属病院神経内科の医師からALSだと告知される気配は相変わらずありませんでした。
ALSが特定疾患に指定されている病気であることは待合室に貼ってある特定疾患お知らせのポスターを見て
知りましたが、今のままでは申請する事もできません。そこで妻と相談し次の外来の時に病名を告げざるを
得ないようにしようと決めました。そして6月の外来指定日に初めて妻と子供を伴って病院に行きました。
呼び出しがかかり妻と一緒に診察室に入るとすぐに「段々障害が進行していっているし、今後も治らない
病気ならそれなりの準備と心構えをしなければならないので、正式な病名を教えて欲しい。」と頼みました。
大学病院ではよくあることなのでしょうがその日対応してくれた医師は初めて診察していただく医師で
とても不思議そうな顔をされました、まるでどうして病名を知らないのだといいたげな顔でした
(九大病院の外来にそれまで約2年間通院していましたが、担当医は5人代わり今回で6人目の医師でした)。
それでもALSだと告げ、病気の内容とこれからの症状の推移について絵を描きながら丁寧にしかも詳しく
教えていただきました。その告知を受け数日後会社から有給をもらって保健所に特定疾患受給者証の
申請用紙をもらいに行きました。その時保健所の職員から対象者は誰だと聞くので私だと答えると、とても
意外そうな顔をしながらも特定疾患受給者証については手続きについて説明してくれました。今考えると
その席で意思伝達装置の導入や障害者手帳・障害年金等の福祉制度全般について説明してほしかったと
思います。
仲間がいたから仕事が続けられた
7月にはいるとペンとか印鑑がもてなくなりました。もう物を書く事はできません、以前ならばこの時点で
職場を離れなければならなかった事でしょう、でも今はパソコンという強い見方がありました。パソコンを
使えば今までと同じ様に仕事ができます。稟議書の作成も統計資料も業者や職場の仲間達と打ち合わせする
ための資料も説明用のパワーポイントも何でも作れます。私はこの時ほどパソコンのありがたさを痛感した
事はありませんでした。署名や捺印が必要な時は部下の女性社員が代行してくれました。
またこの頃になると階段を登るのが辛くなっていました。会議や打ち合わせ等に出席するための移動は
エレベーターを使えば済むのですが、別棟にあるエレベーターのない3階の食道へ行くのにかなり
苦労していました。その事を知ってか知らずか、同じ職場の女性社員のみんなが自分たちが頼む時に一緒に
お弁当を頼んでくれるようになりました。それどころかお昼になるとお茶と私専用のスプーンまでつけて
きちんと準備してくれて、食べ終わったら後片付けまでしてくれるようになりました。上司も距離のある
駐車場から歩いてくるのは大変だろうと本社の人事と直接交渉してくれて、自家用車の社内乗り入れと
職場のすぐ近くに駐車して良いとの許可を取り付けてくれました。私の会社では自家用車の社内乗り入れは
部長職以上となっているので破格の待遇といえるものでした。
そしてその頃にはもう腕が上がらないためスイミングもできなくなっていましたので、万歩計を着けて
一日に一万歩歩くようと努めました。もし一万歩に満たない時には、家の近くに借りていた駐車場から
マンションまで遠回りして帰るようにしていました。山歩きも続けていましたが、もう宝満山ほど高くて
厳しい山はとうに登れなくなっていました。そこで天拝山にコースを変えていました。
その当時ボーナスをもらった日と正月に妻と必ず交わす言葉がありました。
「これが最後のボーナスだね」「今年も無事正月を迎えられたね」
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会社に病気の事を正式に話す、そして・・・
その後月日が経つにつれて障害は確実に進行していきました。下肢に比べ上肢の障害の進行が早くて腕や
手を使う作業例えばイベント用の商品の発送なども、私は印刷して頼むだけで後は職場の後輩に代わりに
やってもらうようになりました。パソコンもフルサイズキーボードの着いたデスクトップタイプから、
ノートタイプに替えてもらいました。手をキーボード上でできるだけ動かさなくて済むし、キーストロークも
小さいから指の力が弱くても打てるからです。
1999年4月からはいつでも仕事が引き継げるようにと、私が1年間そして毎月ルーティーンとして行っていた
業務スケジュールと内容をまとめておきました。そしてその年の9月に翌月から職場で所属が代わるのを
きっかけに、今の上司と次の上司・人事・組合に私の病気の事や今できる仕事の範囲・今できている事でも
今後いつできなくなるか分からない事、それでも身体が動く限りは仕事をしたい事を正式に伝えました。
この時私が告げなくても健康管理室の医師からおおよその話は人事や上司には入っているようでしたし、
それが当たり前の事だと思います。この時私は職場を離れるよう告げられても仕方がないと覚悟していましたが、
職場で仕事の内容と量を調整してバックアップしてくれるとの事で、引き続き勤めて良いと言ってくれました。
みんなのおかげで仕事が続けられる、でも・・・
2000年2月になると電話の受話器を取るのも難しくなってきましたし、言葉にも障害が出始めました。
それも私ができるだけ電話を取らなくてすむように、グループ電話で職場みんなが優先的にキャッチする様に
してフォローしてくれました。基本的に会議や打ち合わせの案内や仕事に関する個人的な依頼はメールで
回ってきますし、私自身も業者や他の部署・営業への連絡や依頼はメールで行っていました。また前の部署で
行っていた庶務的な仕事や社内の公式の統計資料の作成や物品の手配は、今回の異動に伴ない他の部署が
引き継ぎましたので私の手を離れていました。そのため私自身にかかってくる電話の量も、前の部署にいた
時に比べればぐんと少なくなっていました。それでも所属している部署のみんながミーティングや他の
部署との打ち合わせで、私を除いて全員席を外すこともありました。そんな時に電話がかかってくると私の
後ろの席にいる経理の女性社員が素早く反応してくれました。私がその頃私に課せられていた仕事は、一部
専任の仕事を除けば実務からアドバイス・確認・フォローに変わっていました(一部非公式にしていた
私独自の形式の公式より詳細な販売統計資料は作り続け以前の部署の仲間たちに配り続けていましたが)。
その様な状況を見ていたのかどうかは分かりませんが、3月の始めに人事の責任者が私の所へ来て、退職後の
事も含めて会社の方方針を伝えておきたいので妻同席で説明する場を設けて欲しいと告げました。その席で
人事の責任者は、自分は会社幹部の意向できている事・会社としては私が納得するまで勤めていい事・ただし
自家用車での通勤は他人を巻き込む危険があるのでやめる事と、合せて離職・退職後フォローについて詳細に
説明してくれました。会社が障害のために事故を起こす危険性のある者に自家用車の通勤を禁止するのは
当然の事です、もし人身事故を起こしたら私や私の家族全員の人生を狂わせるばかりではなく会社の信用をも
傷つける可能性もあるのですから。それでも私はかねてより会社に自家用車で通えなくなった時が退職する
時だと心に決めていましたので、その場で退職という言葉がのどまで出かかりましたがどうしても口に
することは出来ませんでした。仕事をまだしたい・続けたいという未練が邪魔をしたのだと思います。
それに会社の幹部が私が納得するまで仕事を続けて良いと言ってくれた事が本当に嬉しく、また今この瞬間に
退職という言葉を口にすることは会社や幹部それに職場でいつも私を助けてくれている上司や仲間達を
裏切ることになると思ったのかもしれません。
その頃私が係わっている商品がもうすぐ完成し市場に出荷できる最終段階に入っていました。そこで
この商品がお店に並んだらその時を区切りに職場を離れよう、それまでは出来るだけ悔いを残さないように
仕事に懸命に励み、今この瞬間に出来る仕事を楽しもうと決めました。
自家用車での通勤が禁止されたため初めはタクシーを利用していましたが、言葉が次第に通じなくなって
きたため運転手は私の告げる行き先を理解できなくなりました。結局私が仕事を続ける上で最も恐れたように
妻が送り迎えする事になりました。この頃私たちには一年生・年少・一歳半になる子がいましたので、年少の
子を幼稚園の送迎バスに乗せてから会社に送って行き、帰りは夕方7時頃子供3人を自動車に乗せてあるいは
一年生のお姉ちゃんに子守りと留守を頼んで迎えに来ました。
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職場最後の日がついに来た
その様な事が二月ほど続いた後の5月の下旬、私の担当した最後の商品も無事出荷できお店に並び
始めました。私が職場を離れる時が来たことになります。この時の私には仕事ができなくなる事への未練は
まだありましたが、仕事を遣り残したのではという無念の感はありませんでした。そして2000年5月26日が
職場で過ごす最後の日になりました。
朝から今まで一緒に仕事をし色々と意見を交し合った他の事業場の部署のリーダー達が次から次へと挨拶に
来てくれました。私はこの方たちにもいろいろ世話になったなという思いが浮かんできて、涙が溢れてくる
ばかりでうなずくのがやっとでした。それから私は送られてくるたくさんのメールを読んだり、職場の
仲間達の働いている姿をただただ眺めながら最後の一日を過ごしました。二度と席につく事のない机の中の
整理は昨日までに終わらせていて、今はただ預けておく印鑑類と組合員手帳が残っているだけでした。
そして夕方六時半を過ぎた頃、迎えが着いたとの連絡が入りました。ついに職場を離れる時間が来ました。
私は名残惜しげに席を立ち、みんなに頭を下げながら事業場の後ろの方の通用口に向います。すると
事業部長をはじめ事業場に残っていた全ての部署の上司や仲間達が見送りに出てきて、壮行会を行って
くれました。その場で事業部長が「復帰を信じて待っている。」と言ってくれました。本来なら中途退職者の
壮行会は私の会社ではしないことになっていましたので異例の事でした。そしてみんなの励まし声の中で
娘が腕が上がらない私の代わりに花束を受け取り私は自家用車に乗り込み見送りを受けながら会社を
後にしました。
思えばペンを持てなくなってから約2年、会社や組合の幹部や事業場の各々の部署の上司や仲間達
それに他の事業場のみんなの応援があったからこそ今まで仕事を続ける事ができた訳ですから、
私は今まで受けた恩にこれから報いなければならない・申し訳ないと思い始めていました。その恩に
報いるためには、どんな病気でもいつかは治せる日が来ると信じて今自分が出来ること・しなければならない
事をやり続け、その日が来た時のために役に立つだけの神経組織や筋肉細胞を出来るだけ残しておく、
そうすれば細胞増殖によって力を元に戻す事も可能になるかもしれないと考える事にしました。
その後も会社は経済的に私が最も有利になる様に残りの有給と欠勤を組み合わせてくれたり、もう会社には
二度と戻ってくる事のない私に対し社員規定で最長の3年という休職期間を与えてくれる等可能な限りの事を
してくれました。
今だから言えることですが、入社当時の私は今考えれば当然の事なのですが与えられた
仕事が思い通りに進まないことが面白くなくて会社を辞めることばかり考えていました、それが会社の真の
姿を全く理解しようともしない自分勝手な思い上がった考えである事も分からずに。今は明確な経営方針を
持ち世界文化の進展に貢献できる会社で働けていた事、こんなにすばらしい上司や仲間達に囲まれて仕事が
できたことに感謝するばかりです。
リハビリと出会えてよかった
私が職を離れると妻はすぐに介護保険の手続きを進めました(この時私はALSでしかも42歳、介護保険の
受給資格者になっていました)。そして介護保険の事業者も当時通院していた福岡徳洲会病院内にある事業者を
選びました(緊急の時にもすぐに対応できるように、一年程前に九大付属病院から自宅から近い
福岡徳洲会病院に代わっていました)。そしてリクライニングタイプの車椅子のレンタルと、ヘルパーによる
週2回の入浴介護のサービスを利用する事にしました。合わせて今まででは想像も出来ないような空白の時間が
出来てしまった事と、筋萎縮が進んでしまい自分ひとりではベランダの柵につかまり立ちして屈伸運動しか
出来ない身体になってしまっていた事から、福岡徳洲会病院での主治医にリハビリを受けたいと願い出て
リハビリテーション科の医師と連絡を取ってもらいました。それまでに診察してもらった神経内科の医師は
リハビリを勧めることは一度もなく、日常生活を続ける事がリハビリになると説明してくれていましたが、
私は納得していませんでした。私は筋肉に負荷をかけてこそ筋肉の萎縮を止める事になる、たとえそれが
できなくてもせめて出来るだけ進行を遅らせる事が出来ると思っています。確かに筋肉に疲れを残し
過ぎる事によって転倒でもしたら元も子もないのは分かっています。だからこそ専門家の手を借りてリハビリを
する必要があると思ったのです。
福岡徳洲会病院のリハビリテーション科で私は色々な事を教えてもらいましたし、発見する事もありました。
階段を上り下りできる車椅子が開発されつつあるという話も聞きました。しかし私が一番幸運だと思ったのは
言語・嚥下のリハビリがある事を教えてもらったことです。私は週に3回上・下肢のそして週1回言語・嚥下の
リハビリを受診する事にしました。福岡徳洲会病院のリハビリテーション科の特長は、専属の医師・療法士・
看護婦などスタッフがとにかく大きな声で話し掛けてくれる事と明るい事です。そしてそのスタッフの
明るさに影響にされる事により、リハビリテーション科を受診・利用する患者達も日々明るさを取り戻して
いく様子が目に見えて分かる事です。私も上・下肢のリハビリに通う事により明るくなりましたし、
生きていく事への希望がどんどん膨らんでいくのを自分の気持ちの中で感じていました。また言語・嚥下の
リハビリを知り出合えたことが、私がその後の療養生活を送る上で大きく影響したと思っています。
気管切開した今でも、まれにですがビールを楽しみ刺し身の味をあじわえるのもあのとき言語・嚥下の
リハビリに出会えたからこそだと思っています。逆にも少し早くリハビリというものに出合えていたなら
もしかしてと思うこともあるくらいです。
もう一つ福岡徳洲会病院のリハビリテーション科は私たち家族に大きな思い出を与えてくれました。
それは家族そろって海水浴に連れていってくれた事と親子でプールに入れた事です。福岡徳洲会病院には
リハビリテーション科を事務局にして患者やOBで福岡リハビリ会なるものが組織されていました。そこでは
リハビリテーション科のスタッフや病院関係者・一般のボランティアの方の介護・支援をもらって、
春には花見・夏には海水浴やプールで水泳教室・お買い物会等のレクリエーションを定期的に開催していました。
私の体の状況では家族だけで海水浴に行く事など到底不可能な事で、一番下の子と遊びに行った思い出は
ありませんでした。その事が私にはさびしく、また一番下の子には申し訳なくてたまりませんでした。
海水浴には2回参加しましたが私にとっては大切な思い出です。
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パソコンを操作するための工夫をしよう
職場を離れる少し前に職場で使っていたノートパソコンと同じタイプのパソコンを買いました。
ノートパソコンを選んだ理由は前述した通りですが、このパソコンを選んだのは使い慣れていたことは
もちろんですが、トラックボールが着いていた事が最も大きな理由でした。当時の私の障害の状態では手を
キーボードとマウスの間を行き来させる事は簡単にはできませんでしたから、キーボードと同じ面にマウスが
着いている事が必須の条件でした。それもパットタイプよりトラックボールタイプが扱いやすい
と判断したからです。合わせてノートパソコンの補助用とファイルのバックアップ用として、出来るだけ
安くあげるために中古のデスクトップパソコンを買いました。ただ問題がありました、安いパソコンには
LANポートが着いていない事です。そこでLANボードを買いましたが取り付けてくれる人がいませんでした。
私はいつも思うのですが、行政の障害者に対するIT政策は方手落ちだと。噂話で聞いたのですが、
ハローワークには障害者でも仕事を紹介できるよう環境を整える事との指示が来ていると。しかし行政の
指導により各地で開催されているパソコンのセミナーに参加できるは、健常者か自分で教室まで出向ける
障害者まで。いくらパソコンを覚えてそれを仕事に生かしたいと思っている障害者がいても、自分で教室に
参加できない人をフォローしてくれる機会は設けてくれません。何故出張セミナーを実施しては
くれないのでしょうか。それに各種設定とか簡単な修理ができる人を派遣してはくれないのでしょうか。
そこまでして始めて障害者に対するIT政策を真に行政が実施していると言えると思います。ちなみに私は
見舞いに来てくれた友人がLANポートを着けてくれました。
次に将来ノートパソコンのキーボード上でも手が動かせなくなった時の準備を今のうちにしておこうと
考えました。というのは海外の患者さんがパソコンの画面上に表示されているキーボードを瞳を動かす
事により操作している様子をテレビで見たからです。その時、確かソフトキーボードと言っていたと思い、
パソコンのヘルプ機能を使って色々探していると、IMEバーの中にマウス操作だけで文字を入力できることを
見つけ安心しました。そこでデスクトップパソコンではマウスとソフトキーボード使い文字を入力する事に
しました。
しかし問題点も見つかりました。ひとつは今の大きいマウスではクリックが深くしかも硬くて長時間
使っていると指疲れてきて打てなくなること、二つ目はパスワードを入力使用しようとするとソフト
キーボードが消えてしまう事、三つ目はShift・ALT・Ctrlが使えないことでした。一つ目の問題は、妻に
パソコンショップに連れて行ってもらいクリック感の軽いミニマウスを買うことで解決しました。二つ目・
三つ目の問題は、当時リクルートが開設していたホームページ『パソコン相談室』に相談してVecterという
サイトを紹介してもらい、フリーソフトで問題点に対応したソフトキーボードを手に入れました。今は
会話・入力支援ソフトがある事を知り、私も意思伝達装置の一環として行政の助成を利用してパソコンと
一緒に購入したオペレートナビEXを使っています。
ちなみに私の今の入力方法は、ロジクールの大きなボールを備えているトラックボールタイプのマウスを
足で扱ってソフトキーボード他をクリックする事により入力したり操作したりしています。足で操作する
ことは簡単ではありませんが、足でマウスを扱える限りはワンタッチスイッチに安易に移行する事を
選択しないで足で続ける決意をしています。それが脚や身体の他の筋肉のリハビリなると信じているからです。
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身体障害者手帳の取得と更新
言語・嚥下のリハビリを始めたのにあわせ、身体障害者手帳に言語障害を加え更新しようと考え更新の
手続きを取ることにしました。身体障害者手帳の存在やその手続きについては、検査入院をしていた時に同じ
部屋にいた方から聞いて知り、障害が他の人の目で見て少しでも分かるようにようになったら
申請するようにとのアドバイスをいただいていましたので、1998年の10月に1回めの申請をし4級に
認定されました。そして一年後の更新で2級に認定が変更になっていました。2級になったら福岡県春日市では
障害者助成金の助成を受け取る事が出来、その上医療費が行政負担になります。これまでも医療費の負担は
特定疾患受給者証で1レセプトの医療費はそれほど大きなものではなく月2000円程度でしたが、それでも
助かりました。それにしても言語障害の認定は厳しいものです。私の話す言葉をまともに理解できるのは
その時には妻だけでしたがそれでも、4級にしか認定されませんでした。納得がいかず認定理由を聞いてみると
言語障害は3級が最高で、それも少しでも声が出たら3級には認定されないとの事でした。この国の規準には
納得できませんでしたが引き下がるしかありませんでした。ただ障害者手帳自体は身体障害に言語障害が
プラスになりワンランクアップして1級に更新になりました。しかし言語障害4級では後々意思伝達装置の
導入が難しいとはその時には思いませんでした。
引越し
離職したら私の田舎に転居しようとは前々から考えていた事でした。3人の幼な子の育児・教育それに
色々と介護に手のかかる私の面倒を妻一人で見るのは、体力的にも精神的にも疲れ果ててしまうでしょうから
続くはずもなく、一人では不可能だという事は分かっていることでした。そこで子供たちの世話の一部
だけでも田舎の両親に応援してもらおうと考えていました。この年は一番上の長女が一年生に上がる
年でしたので、本来なら私が離職し年度始めか転居するのが最も自然な形だったのですが、私が気持の上で
区切りがつくまで職場を離れたくなかったのと長女と幼稚園に年少ではいる長男に福岡の友達との思い出を
少しだけでも作らせたいという私のエゴを貫くために、小学校と幼稚園にも迷惑をかける事は承知して
いましたが転居を夏休み末まで遅らせました。
その間に私は前述したように介護保険と障害者手帳の更新手続きを進め、実家では浴槽を広くて浅いものに
替え風呂場の段差をなくし滑りにくいタイルに替え手すりを着けるなどして改装し、また階段とトイレにも
手すりを着けていました。
ところが七月の初めに洗面所から出ようとした時油断して転倒し右上腕骨を骨折してしまい、
身体障害者手帳の更新に必要な測定が出来なくなり手続きが大幅に遅れる事になってしまいました。そこで
まず子供の転校・保育園への入園手続きを済ませました。次にマンション購入の折住宅公庫への支払い免除の
申請手続きをしました。実は私は住宅公庫にその様な重度障害になった時に支払いが免除になる保険が
ある事も知らなかったので、当然自分がマンションを購入した時このような保険に入っている事も
知りませんでした。が、遊びにきた友人がこの保険がある事そして普通は加入しているはずだと言ったので、
調べてみると加入していた事が分かりました。この時マンションの支払いがなくなれば少しは経済的に
楽になると安心したというのが正直なところでした。次に行ったのは実家の方でのパソコンの通信手続きです。
この頃には私にとってもう既にパソコンは、休職中の私が会社の友人たちを始めとする外部との連絡手段で
あり、またインターネットを通じて買い物やその支払いをする大切な手段でもあり手足のようなものに
なっていました。パソコンがあれば身体の不自由な私でも時には妻の役に立つ事が出来ます。
結局福岡で済ませるべき申請・認定が終わったのは11月の始めでした。福岡で各申請書の手続きをしたのは、
スムーズかつ的確に各申請書を書いてもらうにはこれまで私を診てくれ私の状態をよく分かっている
福岡徳洲会病院にお願いするしかないと判断したからです。これでようやく佐賀に住民票を移せる状態に
なりました。佐賀に移ってからすべき事はたくさんありました。まずは病院探しです。主治医は隣りの長崎県に
ある国立川棚病院(現長崎神経医療センター)にお願いする事に決めていましたが、緊急時に対応してくれる
病院または医師や上/下肢・言語/嚥下のリハビリをしてくれる病院を探す必要がありました。福岡では
福岡徳洲会病院だけで全て済んでいたのですが、私の実家の近くには全てに対応できる病院はありません。
それに福岡徳洲会病院では病院に所属するソーシャルワーカーが色々相談にのってくれていましたが、
ここにはそういう人は存在しません。川棚病院の医師や保健婦に相談しながら自分たちで探すしか
ありませんでした。合わせて特定疾患・介護保険・身体障害者手帳の申請・更新手続きをしなければ
なりません。
これらの過程で福岡県と佐賀県の県の行政としてのトータル的な病院体制・福祉行政の違いを感じることに
なりました。例えば特定疾患受給者証の取扱いについても、福岡県では転院しても何ら問題は
なかったのですが、佐賀県では受給者証が使えるのは基本的に主治医のいる一病院だけ、追加したい病院が
あればその都度追加申請書を主治医に追加が必要な理由を書いてもらった上で、それぞれの病院に申請書の
内容を書いてもらった上で申請し認定を受けなければなりませんでした。当時佐賀県では追加申請をする者は
極稀だったようで、私の住んでいる地区を担当していた保健婦さんは認定を取り付けるために色々根回しを
してくれたようでした。福岡徳洲会病院のように一病院で全てをまかなえる地区ならまだしも、神経内科がある
病院さえもほとんどない佐賀県でこの取扱いはおかしいと思い、県庁の健康福祉の関連部署を通して知事宛に
手紙を出した覚えがあります。
また以前住んでいた福岡県春日市で提供されていた福祉サービスで、私の生まれ育った町には無いあるいは
所得基準の違いで受けられないものがある事が分かりました。そこでインターネットのホームページを使って
各自治体の身体障害者の福祉を調べてみました。そして各自治体で福祉に対する取組と内容に大きな差が
あることを知りました。佐賀県はどちらかというと福祉に対する対応と取組は弱いと言えます。その分を
各保健所がフットワークでカバーしていこうとしているように私には思えます。
最終的に言語・嚥下リハビリに関しては佐世保の病院を上・下肢のリハビリはデイケアを利用する事に
しました。また緊急時には近くの医院の往診もしていただける医師にお願いする事にしました。後で
知ったのですが私を見ていただくこの先生は大学病院にいたときにある難病を専攻しており、ALSにも理解が
ありました。私は幸運に恵まれていると思いました。また妻と保健婦があらかじめ話し合いをして、
様態が急変した時には隣りの県にある川棚病院に救急車で直接運んでくれるように手配してくれていました。
救急車で患者を搬送する場合、いくら患者のかかりつけの病院が在ってもその地区の病院にひとまず
搬送しなければならないという不思議なルール?がある様で、まして私の場合は希望する病院がその上
隣の県の病院でしたから、関連部署を調整・説得するのに余計に時間と労力を必要としたようでした。
余談ですが、この取り決めをしていたお陰で、2002年の10月に呼吸困難を起こした折に救急車で迅速に川棚病院に
搬送してもらえ、気管内挿入その後の気管切開という処置をこれまた迅速かつ的確に施していただけました。
後で聞いた話ですか、妻はこの時私の死をもある程度覚悟していたという事でした。が、当の私の頭の中は
妙に冴えていて、救急車に乗せられた場面や私にその時々で同乗していた訪問看護師や救急車の隊員から
掛けられている言葉、川棚病院で対応していただいた医師の顔や「これから気管内挿入をしますが
良いですか」と私に確認する声まで聞こえていました。そればかりか救急車の中で揺れている私の身体を
通して、今どのあたりを通っておりどの交差点を曲がっているかまで手に取る様に分かるほどでした。
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介護保険と障害年金
私が佐賀に移ってきて一連の手続きを通して最も困ったのは介護保険での介護支援事業者選びでした。
この時の私の事業者選びの選定の基準は、近くの病院では上・下肢のリハビリを簡単には受ける事ができない
事が分かりましたから、リハビリの設備が充実している施設で通所リハビリが受けられるそういうデイケア
サービスを紹介できる事業者を探す事でした。でも役場から受け取った資料には、事業者の名称は記載されて
いてもそこがどういう種類のサービスの提供をしているのは記載されてはいませんし、役場の福祉担当も
そういった細かい事までは当然知りませんでした。私は個人的には役場が指導して各事業者にそれぞれが
得意とする分野のサービスを出させてそれを一覧表にして渡すべきだとの意見を伝えましたが、今まで
その様な要望をした者もいなかったらしくどうしようもなくて決めかねていました。その様な折に
とある用事で保健所に出かけていった時に、偶然ある事業者のソーシャルワーカーがいて介護保険で
受けられるサービスに付いて詳しく説明してくれた上で、自分が勤めている老人健康施設を一度見学して
みないかと誘ってくれました。
そこで幸寿園というその施設を見学しに行くと、リハビリの設備には満足しましたが、当然のことながら
利用者はかなりご年配の方が多く一瞬ためらう気持もちが起きました。でもここに通うことで妻の負担が
少しでも軽くなるし、ここで回りを気にしないようにしてリハビリをしながらマイペースでわが道を
行くようにすればいいやと思い直し利用する事に決めました。 そして初めて幸寿園を利用する日が来て
送迎の自動車に乗り込む時スタッフが明るく迎えてくれました。またデイケアの部屋に入ると初対面の方たちが
明るい声で気軽に「おはよう」と声をかけてくれました。そして自主トレをしていると「がんばってるね。」
とみんなが声をかけてくれますし、休憩していると会話の輪の中に誘ってくれます。帰る時にも
「また今度ね。」とお別れの挨拶をしてくれました。私はここの明るいスタッフと利用者に囲まれて
過ごせるのなら、ここ幸寿園で時には昼の間を過ごすのも悪くはないと思い始めていました。
次に取り組んだのは障害年金の手続きでした。障害年金については1999年の12月の初めに妻が日本ALS協会
発行のケアブックを読んでいて始めてその存在に気が付きました。それまで福岡・佐賀の両県で色々な手続きを
通して医師や保健婦・市役所や役場の福祉担当者と会う機会はありましたが、誰も障害年金という制度が
ある事を教えてはくれませんでした。多分みんな私たちが知っているものと思い込んでいたからでしょう。
逆に私たちは障害年金について誰に尋ねたらいいか分かりませんでした。そこで休職中にもかかわらず会社の
人事や福岡徳洲会病院で以前お世話になっていたソーシャルワーカーにも尋ねたのですが、それでも
詳しいことはなかなか分かりません。社会保険庁のホームページを見ても私の今の状態が厚生障害年金の
対象になるのか私にはよく理解できませんでした。結局会社の人事が調べてくれて「建前では勤務地のある
福岡市の社会保険事務所で申請しなければできないという事になってはいるけど、実際には最寄の
社会保険事務所でもできるはず。」と教えてくれました。当時私は会社と健康保険組合から休職手当と
傷病手当を支給してもらっていましたので、どのタイミングで厚生障害年金を申請すれば自分にとって最も
有利になるかを相談するために最寄の社会保険事務所に行き窓口の担当者に尋ねると、厚生障害年金を
受給するとその分と休職手当・傷病手当から差し引かれるという誤った説明を受け、それなら申請しても
しなくても個人的には受け取る収入は変わらないから今慌てて申請する必要はないと考えその時は
申請せずに帰る事にした。しかし今まで世話になった会社の費用負担が私が厚生障害年金を受給することで
少しでも小さくなればその方が良いと思い直し2月に入るとすぐに申請手続きをしました。その結果
翌3月分から厚生障害年金を受給できるようになりました。
実は私はこの時の厚生障害年金の認定時期には大いに不満があったのです。私の障害の度合いは
身体障害者手帳の更新過程を見れば明白であり、少なくとも身体障害者手帳で2級に認定された一年前に
遡って最低障害年金2級の認定が受けられなければおかしいと思っていました。しかし再裁定を申請する事は
しませんでした、申請すれば妻がその分苦労するのは目に見えて明らかだったからです。それにしても
もしこれまで特定疾患・身体障害者手帳・介護保険と申請・更新する過程の中で、誰かが障害年金について
正しい知識を私に与えてくれていたとしたなら、このように厚生障害年金の支給の時期がずれ込む事は
なかったと思います。
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家の改装・増改築と介護保険
厚生障害年金を申請した2月頃までは時には転びながらも身体のリハビリになると考え、無理をしてでも
部屋の中では壁を背にして伝え歩きをし階段は両手摺をつかんで登っていましたが、排泄が間に合わない時が
生じるようになりましたので両親が1階に部屋を作ってくれる事になりました。そこで私は今の家のそれぞれの
部屋の機能と構造を最も損なわなくて済む様にと思い、縁側を改装して庭の方に四畳半ほど広げトイレ付の
部屋を造ってくれるように頼みました。親父にとって家を変な形に改装する事は辛くしかも多大な出費を
伴なう事でしたが親父は快く私の希望を聞いてくれました。家が改装されていく様子を見たり音を聞いている
事は私にとっても辛いものでした。トイレには自分で後始末位は出来る様にと、足で押せる位の大きさの
リモコン付の衛生洗浄器を取り付けました。今回部屋を作った事により私自身の歩く量が減り、
脚が見る見るうちに弱ってしまったのは仕方のない事でした。
しかし今回の改装には介護保険からも身体障害者の方からも一切助成はありませんでした。理由は
フローリング等の改装は認められるのですが増改築への助成は認められていないとの事、トイレは
和式から洋式への変更以外は認められていなくて部屋に新しくトイレを作る事などは想定されていないとの事
(部屋ではポータブルトイレで十分?どちらが介護が少なくて済む?衛生的?利用者の気持は?)、
衛生洗浄器は基準にないとの事等です。私は今でも福祉の内容が時代遅れでしかも現場に合ってないものも
多い事、現場の実情をよく分かっていないお役人が基準を決めている事に憤りを覚えます。
意思伝達装置について
この年の夏頃でしたか、保健婦さんから意思伝達装置『伝の心』の説明と実演があるから聞きに来ないかとの
誘いがあり行ってみる事にしました。その時実際に触ってみて、私は『伝の心』では他のアプリケーション
ソフトが使えない事と『伝の心』が搭載されているパソコン本体がかなり旧機種である事に不満と
メーカーへの不信を感じました。私には身体が動く限りはその部分を使ってパソコンを操作し、出来きるだけ
ワンタッチスイッチには移行しないようにしようという自分勝手な強い思いがあります。また私も
メーカーに20年勤めた人間ですから分かるのですが、最初に『伝の心』の企画を許したメーカーの幹部や
実際に企画・開発してくれた技術者には感謝しても仕切れないくらいの気持ちです。しかしメーカーとしては
仕方のないことかもしれませんが、採算性に走りユーザーの事を余り考え続けてくれてはいないのが
現れていました。そのため私は『伝の心』を意思伝達装置の候補から外しました。最近ある資料を作るために
ホームページを開いてみて『伝の心』のメーカーが利用者の方を向き直しているのを知り安心しました。
ALSなど筋萎縮進行性疾患の患者に対し意思伝達装置の導入条件が緩和された今、誰もが親しみが持て
触ってみたくなるソフトを搭載したパソコンとして紹介する事により、進行性疾患を持つ者が早期から
パソコンに慣れ親しみ、意思伝達装置として使わざるを得なくなった時に誰でもが何の抵抗もなく
移行出来る装置になる事を期待しています。
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我家を経済的に助けてくれたのは
経済的に我家を助けてくれたのが、休職期間中に会社が支給してくれた休職手当と健康保険組合からの
傷病手当、公的機関からの構成障害年金とそれにある損害保険会社の寝たきり介護保険でした。元々
保険嫌いで通っていた私は30才を過ぎるまで自動車の任意保険以外は何も加入していませんでした。
ところがある日その年の人事異動で会社の保険部門に転籍した職場の大先輩から、「会社の団体扱いの
介護保険に一番安いのでいいから入ってくれないか、積立年金方式だからいずれは帰ってくるから
貯金していると思えば良いし。」と頼まれ断りきれなくて加入しました。それが十数年たった今頃になって
助けてくれるとは思いもしませんでした。いつまでたっても会社の関係者に助けられています。でもこの
寝たきり介護保険の認定は思いのほか厳しく認定審査に三年もかかりました。今はこの介護保険と
厚生障害年金と町からの重度障害者に対する助成金で暮らしていますが、まだ小さい子供たちが
中学・高校・大学へと進んだ時の事を考えると不安になります。だからほとんど自由の利く身体では
ないのですが、パソコンを使う仕事で少しでも収入が得られる仕事がないものかと思い、ハローワーク
通いを続けていたこともありました。
私の在宅療養生活@
私の在宅療養生活は気管切開をして人工呼吸をつけた前と後で大きく変わりました。その中で唯一
変わらない事は、私がどんなに難しい病気でもいつかは治ると信じたいと思っている事です。そのためは
今出来る限りの運動・リハビリをする事だと思っています。よくくじけそうになる事もありますし、
この思い込みが強すぎたために胃ろうを作るべきタイミングを見誤り気管切開の時期を早めてしまったかなとも
思われますが、これについては自分の信念に基づいて行った事ですから惜しい事をしたなという思いは
ありますが後悔はしていません。
在宅療養前半はデイケアと病院通いそれにパソコンを楽しむ日々でした。火曜と木曜はデイケアで
自主トレと療法士によるリハビリ・昼食と会話を楽しみました。デイケアに通うとみんなが元気を
分けてくれている気がしていました。水曜は佐世保の病院で上・下肢・言語・嚥下のリハビリをし、
帰りに妻と二人で色々な所に自動車を止めてコンビ二の弁当を食べるのが楽しみでした。金曜日は
一週間おきに主治医による診察を受けるため併せて上・下肢のリハビリのために川棚病院に通い、
翌週は佐賀市内にある漢方治療クリニックに通っていました。その時公園に自動車を止めて昼飯代わりに
たこ焼きやお好み焼きを食べるのが楽しみでしたし、またクリニックの先生が患者が諦めない限り自分も
諦めないと言ってくれる言葉に勇気付けられました。食事と入浴とトイレは妻が介助してくれていました。
そして2001年の春、川棚病院の主治医からインターネット利用した介護支援を考えていると聞き、
その年の11月に完成したので使ってみないかと促されました。これがホームページを利用した
ALS介護支援システムを利用するようになったきっかけでした。ALS介護支援システムの良い所は、
肉体的精神的な状況や状態を毎日自分の力や言葉で入力し主治医が毎日チェックしてくれている事による
安心感でしょうか。話せない私にとっては外来の時よりもこの支援システムの方が正しく伝える事が
出来ます。また様態が芳しくない時適宜にアドバイスがもらえる事も強みと言えます。気管切開をして
移動がままならない身体になった今時々訳も分からないのに発熱してしまいますが、そんな時でも
アドバイスがもらえるので安心です。また始めはこのシステムに要する時間も5分程しかかからなくて
入力するのも苦にはならなかったのですが、今は最低でも30分はかかるようになりかなり疲れるように
なってしまいました。でも入力すること自体がリハビリになると考えています。
2002年に入ると手足・体幹の力も更に弱くなり妻だけでは入浴介助が難しくなってきました。そこで
デイケアで入浴介護を利用する事にし合わせて訪問看護による入浴介護を増やす事にしました。
訪問看護ステーションの事業所はデイケアの建物と同じ建物の中にありましたので、この頃にはもう
訪問看護師さんとも顔見知りになっておりそれほどの抵抗感を感じる事はありませんでした。
そして春になり子供が2人小学校に行くようになると、妻が土曜日の昼間子供たちの食事の用意で余計に
忙しそうにしているのが見て取れましたので、土曜日にもデイケアを利用するようにしかつ利用する時間を
これまでの2時帰りから4時へと延長する事にしました。もうここまで来るとデイケアのスタッフや利用者の
事が第二の家族のように感じていました。
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胃ろう創設と気管切開
2002年の始め風邪を引いて食事を摂り辛くなった時、その年の内には胃ろうを作らないと次の年に
風邪でも引いたらもう乗り切れないと思っていた私は、8月のある日デイケアで昼食介護をしてくれていた
スタッフが何気なく言った「胃ろうを作ってもちゃんと食べさせてあげるよ。」との一言でついに決心し、
9月に入るとすぐに胃ろうを作るために入院しました。その時主治医から思ったより肺機能が落ちているから
もしもの時のためにバイパップを練習しておこうと告げられ練習する事になりました。幸いにも胃ろう創設の
手術ではバイパップは使わずに済みましたが、退院する時にいずれ近いうちに必要なると思われるから
今からバイパップに身体を慣らしておいた方が良いだろうという事になり持って帰りました。ところが
バイパップを身体に適応させる事が出来ないうちに呼吸困難を起こし、10月の半ばに気管切開をする羽目に
陥りました。胃ろうを作る事にはかなりのこだわりがあり時期を引き伸ばしていた私でしたが、気管切開には
抵抗する術もなく主治医の提案を割とすんなりと受け入れました。それは胃ろうを造り退院した後何となく
気管切開をする時がもうすぐに来るなとの予感がして私の中に日々覚悟していた感があったからでしょう。
その後入院すること四ヶ月、私は最初のひと月間はもう来る日が来ても元の身体に戻すことは
難しくなったなという絶望感を感じながら、また鼻と口を使わないで息をするにはどうすればいいのか
悩みながら毎日時計を眺め空気を吸う回数を数えていました。二月目は一番下の子が高校を卒業するまで
あと何日あるかを毎日毎日計算しながら過ごしていました。前向きに考える事が出来る様になったのは
三月目になってからです、ようやくパソコンが扱えるだけ手や指が動くか確認しだしました。そして
気管切開するまではクリック出来ていたミニマウスのクリックボタンがもう押せなくなっていることが
分かりまた落ち込みました。でもこの時はすぐに立ち直れ、どうすればまだ動かせる足でパソコンを
操作出来るかと考え出しました。パソコンさえ使えればみんなと分かり合える・親としての責任も少しは
果たせると思えるようにようやくなったのです。それからの私はまた来たる日がいつかは来る事を
信じることが出来るようになり、身体が動く部分すなわち顔回りと僅かに動く肩と肘・指の一部と脚を
朝目が覚めたら今日も動くかどうか確認し、暇な時には出来るだけ動かすようにしました。ある日見舞いに
来た子供たちの前で右手の親指を動かした時、娘が「お父さんの親指が動いたよ。」と無邪気に喜ぶ顔を見て
私も嬉しくなりましたし力をもらったような気がしました。
私の在宅療養生活A
その頃私の周りでは色々な人達が集まり私の在宅療養に向け話し合いを行い準備が着々と進んでいました。
まるで私の退院を待ちわびてでもいるかのように。そこで話し合われた内容を聞いてみると、
@川棚病院(現在の長崎神経医療センター)ではカニューレ交換を含む通常の外来診療
(私の希望もあり2週間に一度)と様態急変時の入院対応、年に3・4回2週間程度のレスパイト入院を
引き受ける、また日常の状態はALS介護支援システムで確認を取り合う
A在宅でのカニューレ交換・様態の変化時には自宅の近所の医院の先生に往診にて対応していただく
B訪問看護が毎日入る
C訪問リハビリを週2回来ていただく
D入浴車を手配する
E意志伝達装置を申請する(私の希望に応じたパソコンとオペレートナビ+ワンタッチスイッチ)
E退院の際受持ちの看護師が責任を持って母に吸引の指導をする(ちなみに妻は元看護婦です)
等だったようです。
退院してからずいぶん経ちましたが、今もこの時の話し合いに基づきまわりの皆さんに支援していただき
助けてもらいながら、たいした支障もなく進んでおります。
しいて問題点を挙げれば
@妻に疲労が溜まってきた体調を崩しかける事。母が補助的な役割をしてはいますが補いきれないようです。
また訪問看護も日曜・祝日を除いて毎日来ていただいていますが、時間の壁がありあまり甘える訳にも
行かず何ともし難いものがあります。
他の選択肢が増える(例えば吸引の出来るヘルパーのいる訪問介護事業所が近くにできる・
24時間対応の訪問看護ステーションが近くにある等)事を望むだけです。
A胃ろうのチューブがぬけたとき対処の仕方を知らず交換するのにかなり痛い思いをした。
B停電した時の人工呼吸器の対応を根本的にどうするは未だに解決していない。私の人工呼吸器に対する
現時点での対欧は
・電力会社からは一つの電線で入っているが、家の中では私の部屋だけは別回路・
別ブレーカーにしている
・人工呼吸器には停電に対応した外付けアラームが着いている
・外部バッテリーを所持している
・呼出コールは充電対応で停電の時も使用できる
・どうしようもない時は自動車のシガーライダーから電源を取る。
私はこれまで停電を3回経験しました。初めの二回は私の認識通り短時間の停電で人工呼吸器は
自動復旧しましたから自発呼吸で乗り切れました。しかし先日起きた三回目の停電は10分余り続いたので、
さすがに自発呼吸では苦しくなりコールで妻を呼びました。この時幸いだったのは停電が昼間だった事でした。
この事で妻が危機感を一層強く持ち保健師と連絡を取り九州電力と話し合いの場を持ちました。その時の
九州電力の説明と今後の対応は、
@今日日、工事によって停電する事はなく停電が起こるとしたら事故による停電になる。この場合事故が
起こった地区が自分の家の周りでない時は、3分以内の停電が断続的に2回起こる
A停電が4時間以上続く時は連絡する
B優先的に電話を取り次ぐよう登録しておく
C要望としては、電気が消えたらまず周りの家を見て停電かどうか確認して欲しいし、
発電機を備えるとかして自己防衛して欲しい
とのことでした。
いつの日か治る日が来る事を信じて
私は多くの方々の支援と援助を受けて生きています。会社でも沢山の人に世話になってきましたし、
困った時には今でも相談して助けてもらっています。大学の友人・高校の友人・小中学校の時からの友達も
助けてくれます。近所の人も子供達にも良くしてくれます。医療関係の方々・訪問看護師さん・デイケアの
スタッフ・ヘルパーさん・ケアマネージャーそして家族にもいっぱい助けてもらっています。だからいつの日か
治る日が来る事を信じて、今出来ることに精一杯取り組まなければなりません。それが今の私に出来る唯一の恩
返しです。