少年犯罪について


 教育界に悲しい事件が続いていますね。事件が起こった要因は単純なものではなく、あらゆる角度から検討せねばならない重大な意味を持ってます。しかし私は、今ここで、二つのことについて、強く訴えたいと思います。
 教育界がこんな事態になることは、もう十五年も前からわかっていたこと、それなのになぜ、阻止できなかったのか。
 二三日前、NHK朝の番組「おはようジャーナル」で此の件についての話し合いが取り上げられていました。その席上、或教育評論家の発言に「文部省は、昨年校内暴力が減少の兆しを見せ始めた。各関係の方々の協力が実績を上げてきたためだと思う。と発表になった。しかし、私は、一抹の不安を感じていた。それは、もとを断たないで表面だけ覆うと、必ずどこかに現れる、と思うからだ」というのがありました。
 私は教育界の現場人として、十五年も前から今日あることを予測していました。だから、子供を守るため、子供の健やかな成長を願うため、いろいろな訴えをしてきました。そのためには、教育者としての勉強も怠ってはなりませんでした。一人の力ではなんの訴えにもならないため、同じ考えを持つ者が集まって研究もし、運動もしなくてはなりませんでした。
しかし、その結果はどうでしょうか。耳新しいことを言い、仲間が集まって勉強を始めると、それはすぐ組合運動と見なされ、左寄りの思想だと弾圧され、とても素直に、純粋に話し合えないのです。これが日本人なのです。
 六年前、私は教壇を去るとき、もう教育界は何人かの力では救えない、もう滑り落ちるとこまで行かなくては、止めることはできないと思いました。教育界のトップの方は、今日あることは、事前にわかっていたはずです。なのに、なぜ、もっと手を尽くすことができなかったのでしょうか。
私は以前、ある教育大学の教授の講演会の席上で、質問をしたことがあります。「教育大の教授達がもっと全国団結して、文部省あたりに現場の生の実態を訴えることはできないのですか。母親が強くなり、学校に、社会に団結して運動を起こしなさいと言われるけれど、日本の社会は、日本の指導者達は、そんな声にみみをかしません。」と、すると、「真実、私どもは忙しくてそこまで手が回りません者ね」と、おしゃいました。私は、わかりながら、こんな事態になるまで放置せねばならなかったことが、とても残念です。

 二つめは、母親に対して的を絞ったとき、子供が学校に行き始めると、家ではもう手に負えないから、学校の先生で何とかしてもらおうという、他力本願な気持ちがありはしないか。自分がまいた種は、どんなに苦しくとも、自分で刈り取ってほしい。これが、私の考えです。
今ある子供の姿は、すべて親の姿。子供の将来をダメにしたのなら、必死になってその償いを考えて欲しい。そこに、親としての、他の動物にはない本当の愛が存在すると思うのです。手に負えなくなると施設にやろうと、すぐ安易な方法を選ぶことは、避けたいと思います。まず、親が反省して欲しい。学校は学校での反省があり、社会は社会としての反省があり、それぞれの立場での反省があって、はじめて、子供は救われると思います。
 「親が手に負えなくなる」という考えに関連して、保育所の問題もあります。自分は親としての資格がない、立派な保育所があれば、そこで保育してもらったほうが、こどものためだ。と考えること、如何でしょうか。・・・・・(s,60,2月4日)


なぜ荒れる中学生


 先週に続いて中学生の問題を考えてみましょう。
 中学生の暴行によって、教師が死亡するという事件がありました。報道によれば、その中学生は、家庭では、父親思いの優しい明るい子だとゆうことでした。私は、事件後の、その中学生の心中を察して、胸が痛む思いです。一人の中学生を窮地に追い込んだ教育環境が、残念でなりません。
 一年ほど前、私が或お母様方の会合に出席した時、中学の息子さんをおもちのお母様から、こんな話を聞きました。「子供が学校から一枚の計画表を持ってきました。そして、朝起きてから寝るまでの計画を、母親と一緒に立てて記入し、提出するのだというのです。そして勉強時間として、その中に四時間入れること、というのです」これは、佐賀市内のいち中学の話です。
 私は本当に驚きました。一週間ならいざ知らず、、三年間もこれがつづいたら、どんな子供ができ上がるのでしょうか。また、驚くことに、これを実行している子供がいるのです。そして、母親と先生は、日夜その実行に向かって激励し続けているのです。
確かに中学生に、予習、復習、宿題を完全にこなさせようとしたら、これだけの勉強時間は必要でしょう。しかし、一方子供の生活の実態も考えてみましょう。クラブから帰り、食事をし、入浴をすませた子供が、勉強のできる時間は、いったい毎日どれくらいあるのでしょうか。子供たちは三年間、まっすぐ前を向いて歩きなさい。周りを見回すのはそれからです。と言わないかぎり不可能な計画表だと思います。
   親や教師達は、個性を育てたい、趣味を育てたい、豊かな人間性を、と、口先では唱えています。しかし、毎日家庭生活の中から四時間〜八時間の受験勉強時間をとった残りで、個性が育ち、趣味が育つと考えているのでしょうか。
けきょく大人たちは「すべてのことに適度の興味を持ち、誰とも適当に付き合っていけるようなバランスのとれた人間」を頭に入れているのだと思います。これは、中学生には無理な注文だと思います。一つのことに興味を持ち、熱中してこそ、個性的にも育ち、質的にも大きく育つと思うのです。
 此の学校の方針についていけない子は自然、はみ出しっ子になり、ついていける子がよい子として、教師からも認められるとすれば、はみ出しっ子の心理状態は、どのようになるでしょうか。どんなにずぶとく振る舞っていても、不安と、焦りと、投げやりが交差した、不安定な状態になることは確実なようです。しかも、自己を主張したい年齢ですから、何らかの形で、自己を表現しないと、生きていかれないのです。
 まだ中学生にはほど遠い幼児室のお母様方に、こんなことを投げかけて、ちょっととまどうかもしれません。しかし、教育は、0歳から一貫したものを持たねばならないと考えているのですから。人格そのものの形成がなされる幼児期を、大切にしましょう。また、母親をその目標として、常に成長しているのだ。ということをもう一度、確認しましょう。・・・・(s,60年2月12日)


 
人格的な落ちこぼれ(学習面での落ちこぼれでなく学習以外のことでの落ちこぼれ)


 教師が教えることは忠実に覚えようとするが、自分の方から積極的に工夫する様なことはしないし、班の共同学習などには、消極的にしか参加しないという子が、だんだん増えてきている。遊ぶにも、スポーツにも、仕事にも何にも夢中になることが無く、まるで生活意欲そのものが、枯渇してしまったような子が増えている。
今の子供たちというのは、勉強の時間も長いし、習得している雑多な知識の量も多いはずである。本来勉強するということは、教養を豊かにすることである。教科書で教える科学、芸術、技術などの文化が、学んだ人間の血となり肉となれば、その人間のものの考え方や、行動の仕方もいいほうに変わっていくはずである。だから、勉強して教養が豊かになるとゆうことは、その人間の価値が膨らむこと、即ち人格そのものが、発達することであるべきである。ところが、教育内容が膨大になり、テスト主義が教育の主流になり、学校の任務が点数によって、子供の価値を表示することになってしまった。学力的に優れているが、人格的発達は欠損しているというのは、本当は、その学力そのものが疑似的であり、そんなものを無理に詰め込むことの結果として人格的破錠を生起すると言えないだろうか。(丸木正臣・教育ににんげんを・より)  勉強と教養ー教養と人格や生活が結びつかなくなる。それにより「人格の破壊」が起る。一流の大学生の放火、強盗、殺人がそれを表している。
   できる子供への要注意として、よく、心にとめておきたいことですね。・・・(s,60年12月10日)

    
いたずら電話


 毎日同じ男の声で、(中、高校生位)「もしもし、もしもし、」私は返事をすればここぞとばかりヤジが飛んでくるので、黙って受話器を耳に当てているのですが、きょう、その無言に耐えかねて、彼は叫びました。『バカヤロウ!何かゆわんか!わが、なめとっとか!人殺しか!強盗か!110番すっぞ!今から行くけんにゃ」と、口からでまかせのその言葉に、現代若者のやる方ない不満と、心の荒みを見せつけられ、限りなく、寂しく苦しくなりなした。苦しんでいる彼らの姿が、哀れで、何とか助けてやりたいと思うのです。
 過保護、過干渉によっておこる未発達から来る、子供の自己中心的な『甘えの表現」それは、年齢とともに高まってくる自立への欲求に対し、一人では飛べない焦燥感が、それら理解できない行為として現れるのでしょう。私たち大人は、子供を取り巻く人的、物的環境をじっくりと見直し、考えていきたいものです。・・・(s,60年2月22日)


この手記は、1984年6月から1988年7月まで、週一回発行していた幼児室だより抜粋したものです。
項目は、80項目あります。それらをまとめた本が、9月に河出書房から出版予定です。
このホームページでは、毎月、紹介しようと思っています。


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