こぼれる涙 1


        −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−        <こぼれる涙 1>=10月2日・毎日新聞佐賀面に掲載

 2000年5月3日午後1時、母は友人の山口由美子さんと、福岡・天神へ向かうバ スの中にいた。2人は朝比奈隆氏指揮のベートーベン交響曲第5番「運命」と第4番を 聴きにいく途中だった。2人はコンサートを何カ月も前から楽しみにしていた。
 母は午前中いっぱい幼児室の仕事をし、父から佐賀駅バスセンターまで送ってもらっ た。
 この日の新聞で、愛知県の17歳の少年が主婦を包丁で殺害した事件が大きく取り上げ られており、母は昼食の時「大人が変わらなければ、少年を救うことは出来ない」と、 ため息混じりに父に話していた。
家を出る時
「今日は山口さんと夕食を済ませて来るので、帰りは遅くなると思うから」
と言い残した言葉が、父との最後の会話となった。父は
「寂しいから早く帰って来いよ」
と言ったが、母は無言だった。
 その日、僕は朝から先輩の指導で、パソコンの使い方を習っていた。彼のパソコンを 1週間前に譲り受け、連休から本格的に習うつもりだったのだ。
 母も以前からパソコンには興味を持っていた。僕がパソコンを手に入れ、ホームペー ジを作ろうとしていることを知ると、早速
「あなたのホームページの1ページを、私に使わせてもらえないかしら」
と聞いてきた。
「まだまだ使い方が分からないから、いつになるか分からないけど、その時はいいよ」
と答えた。まあ来年かな、と内心思った。
 母はホームページで「街頭教育かわら版」を再開しようと思っていたのだった。母は 幼児教育に情熱を捧げていた。青少年に起こるさまざまな問題を訴えるため、子育ての 悩みや問題点をつづった「街角教育かわら版」なる新聞を作り、道行く人に配っていた 。
 92年2月から8月までの7カ月、7号まで発行されたが、世間の反応は鈍く、母自身 むなしさを覚えていたようだ。毎号送ってほしいと切手が送られて来たこともあったが 、日に10部受け取ってもらえばいい方だった。
 母の横には、ティッシュ配りのアルバイトの若者がいて
「おばさん、何配ってんの」
と話しかけられるのを楽しみにしていた。彼らのことを話す母の顔は、笑顔でとても楽 しそうだった。
 かわら版の見出しを挙げてみる。
 『校則、それは自立なき子供の集団にのみ必要▽我が子に「頑張ろうね」と呼びかけて いませんか?大人達が、苦手意識を与えさえしなければ、本来子供は常に未来へ向か って、自己の向上の為に輝いている』など。

<こぼれる涙 2>=10月4日・毎日新聞佐賀面に掲載

 母は、安易に保育園に子供を預け、共働きをする今の社会に不安を感じていた。  幼児の心は親の愛によって育まれる。健全な心は自身の才能を自ら伸ばす手助けをし 、大人は見守るだけの存在でいい。IQ教育など不要で、むしろこの時期の愛情不足が 子供に深刻な影響を及ぼす……と母は訴えていた。
 かわら版からは、そんな母の社会に対するメッセージが読み取れる。
 結局、持病のリューマチの悪化で、この新聞は1年足らずで中断することになる。だ がその情熱は冷めず、私のホームページでの「復活」の相談となったわけだ。  以前から母は「幼児室」という乳幼児教室を主宰していた。それは子供の教育という より、親、特に母親教育の場だった。幼児期にきちんとした自立教育を行えば、将来出 会うであろうさまざまなストレスに、立派に対処できる心を作り出すことが出来ると信 じて、この教室を始めた。
 人々の輪が広がり、子供たちの教育が親サイドで変わることを願っていたのだが「社 会のスピードが増し、そんなことではとてもついていけない。本当にもう子供たちが危 ない」と鬼気迫る表情で、後に話したことがあった。
 話の中で、何か私に出来ることがないかということになり、僕の頭にすぐ「かわら版 」のアイデアが浮かんだ。
「母さんが、自分の手で1枚づつ道ゆく人に配ったらいい。きっとアピールできると思うよ」
と言った。
 母はすぐ行動に移し、翌月には「かわら版」が出来上がった。母が「かわら版」を持 って出かけた初日、早く話を聞きたくて帰ってくるのが待ち遠しかった。母も早く誰か に話したかったのだろう。帰ってくるなり言葉を選ぶのももどかしく話し始めた。その 時のほっぺをほころばせた母の顔が目に浮かんでくる。
 今、この「かわら版」は一人歩きを始めている。事件で母のことを新聞で知った女性 から「かわら版」のホームページを作りたいとの話があり、現在、彼女自身の手作りで 運営されている。
 このことが1月に朝日新聞で紹介されたが、その反響はすごかった。3日間で600 0件のアクセスがあり、関心の高さにビックリさせられた。 
 ともあれ、そのホームページの第一歩を事件が起きた5月3日に歩み出したわけだ。 先輩にパソコンを習い、夜には彼と酒を飲む約束をし、楽しい一日になるはずだった。

<こぼれる涙 3>=10月5日・毎日新聞佐賀面に掲載
 午後3時ごろ、電話のベルが鳴った。母の友人の山口由美子さんのご主人からだった 。
「お宅のお母さんと妻の乗ったバスがジャックされたらしい」
と途方に暮れたような不安げな声だった。  何のことか分からずにいると
「とにかくテレビを見てみなさい」と言われた。画面に は、ヘリコプターから撮影された、高速道路を走っているバスの姿が映し出されていた 。  バスを乗っ取ってどうするのだろう?どこへ行くのか?こんなことして逃れられる訳 はないのに何が目的なのか?  いろんな疑問が浮かんだが
「とりあえず、僕の方から警察には電話しておきます。また連絡を取り合いましょう」
と答えた。しかし、どう考えてもこっけいな感じが振り払えず 
「後で母に話を聞くのが楽しみだ」
などと考えていた。
 母は、佐賀市内の中心地、水ケ江に父と住んでいた。母が退職金を注ぎ込んで買った 家で、以前は病院だった2階建ての建物。漢方医の院長とその奥さんが暮らしていた家 で、1階に診察室、待合室、受付があり、奥に居間と台所がある。2階は8畳の座敷が 2間と6畳の部屋が廊下を隔てて2間あり、その先にかなり広いベランダがある造りと なっている。
 母は、1階の診察室と待合室だった所を改装して幼児室として使っていた。幼児室は 84年に始まり、この水ケ江の家に落ち着くまでに教室を3カ所移動した。
 生徒が一番多かった時は、40人近くいたと思う。事件当時は、体力の衰えから、特に 問題のある生徒や初めての人に子育ての指導をする他は辞めてもらっていて、結局15人 程通って来ていた。
 教室は、1〜5歳の子供が中心だったにもかかわらずとても静かで、隣の部屋に居て もやかましいと思ったことは一度もない。静かな話し声と作業する音が聞こえていた。 むしろ隣の部屋に居る大人が静かにするのに気を付けなければならなかった。
 塚本家は水ケ江の家を買う前は、祖母、父、母、僕、妻、娘の6人が、現在の僕の家 である久保田町に住んでいた。そこは、水ケ江の家からは西へ6キロぐらいの所で、熱 気球の国際大会が開かれる会場のすぐ近くにある。
 母が水ケ江の家を買った時に、家族全員がこの家に引っ越した。3年後、僕に二女が 生まれたのを機に、僕の家族だけが久保田の家に戻った。その後祖母が亡くなり、父と 母の2人が水ケ江の家に暮らしていた。 

<こぼれる涙 4>=10月6日・毎日新聞佐賀面に掲載
 僕は、水ケ江の父に事件を知らせようと電話したがつながらず、仕方なく留守番電話 に入れておいた。
 そのうち中学3年の長女が帰ってきた。事件のことを聞くと、娘も僕と同様、重大な ことと感じなかったようで
「すごい!あのバスにおばあちゃんが乗ってるの?みんなに知らせてやろう。」
そんな感じで、友人に電話していた。
 僕はその間もずっとパソコンを習っていたが、事件のことが気になり、20分置きくら いにテレビを見に立った。もっとも山口さんからの電話以後は、パソコンに集中出来な かった。夕方の何時だったか、テレビニュースがけが人が出たと伝えた。一瞬僕の心は 緊張した。
 「母でなければよいが……」
 しかし、心のどこかでまだ事件を実感としてとらえることが出来ず、テレビの画面が 現実とは思えなかった。ドラマの中にでも自分が参加している感じだった。このころは まだ「今夜の酒は中止かな」などと悠長なことを言っていた。
 夕方の6時近くになると、さすがにパソコンの前にいる気がせず、先輩と共にテレビ の前にくぎ付けになった。
 そのころ父から電話が入った。
「借家の修理に行っていたので留守していたけど、どうなってるんだ。」
僕が事情を説明すると、さすがに父も驚き
「この先どんなことが起こるかわからない。おれはここに残って連絡を待つ。お前が西鉄の事務所へ行って事情を聞いて来てくれ。」
父の言葉で我に返ったような気がした。そしてこの時から、事件の黒い大きな渦の中に巻き込まれていった。
 西鉄の営業所は、我が家から6キロぐらいの所、佐賀駅の北にある。夕暮れの中、ラ ジオのニュースを聞きながら車で向かう。依然事件に動きはないが、営業所が近づくに つれ、ますます不安になってきた。
 営業所の前はテレビ報道用のライトで明るく照らされ、報道陣がいっぱい詰め掛けて いた。今までテレビで見ていた光景が目の前に飛び込んでくる。自分自身が当事者であ ることを初めて意識した瞬間だった。
 営業所はあわただしく人が出入りし、誰が西鉄の人で誰が報道の人か分からなかった 。ともかく
「母がバスに乗ってるんです」
と会う人ごとに言い、事務所まで案内された。
 事務所には3人の職員がいて、乗客名簿作りに追われていた。忙しくどこかに電話を かけ、またベルが鳴っていた。