こぼれる涙 12


============================== <こぼれる涙 43>=12月18日・毎日新聞佐賀面に掲載

 母を納めた霊きゅう車の後を、僕らを乗せたバスはゆっくりと発車した。
 火葬場に着くまでの30分余り、僕の耳には、ベートーベンの交響曲弟7番が鳴り続け ていた。
妹は
「エンジンの音じゃない?」
と言ったが、僕には違うことがはっきり分か っていた。
この音楽に、僕の心が励まされている。
 「猪一郎、私は幸せよ。何をメソメソしているの。気合いを入れなさい。あなたの人 生を力強く生きるのよ」
 そんな母のメッセージがこの曲に込められていた。
僕の心が事件後初めて、軽くなる のを感じた。前向きな心がよみがえる感じがつかめた。
 「ああ、天国にいるんだね。楽になったんだね」
 傍らに母がいるのがわかり、僕の心は母の愛に包まれているように温かかった。
 火葬場は、佐賀市郊外の小高い山の上にあり、山の途中には遺跡がある。ここへは、 祖母が亡くなった時に来たことがあった。車は静かにこの場所に到着した。
 僕の耳に流れていた音楽も、ここで終わった。だが、ここまでの時間で僕の心は癒さ れていた。
本当に、初めて僕の心を取り戻したと思った。あの夢のような非現実的な感 覚がなくなり、我に返ったようだった。
 しかし、最も過酷な試練が待っていた。
 入ってすぐの入り口の所で位はいを置き、お酒をあげて母の写真を飾り、みんなで手 を合わせた。
次に、隣の部屋に移動する。
その時が近まって来る。
僕は、しっかり自分 を保とうとしてか、体に力が入っている。
 最後の別れをするため、黒塗りのお棺の顔の部分の扉が開けられた。
 まず最初に父が母の傍らへ寄り、最後の別れをした。父の顔は険しかった。
必死で涙 をこらえているのが
分かった。
父は、母の顔を見て
「ありがとうね」
「ありがとうね」
と2回つぶやいた。
 僕も、母の顔を見ようと近寄った。
そこには花に囲まれた母の顔があった。
 本当の見納めになる。
母の顔を見た瞬間、母との人生のすべてが一瞬のうちに再現さ れたように思えた。全ての場面が見えたと思った。
 涙が僕の目から吹き出してきた。もう涙をこらえることもせず、身を任せ、泣いた。
 「母ちゃん」
「母ちゃん」
「お母ちゃん」
 僕の口は呪文のように母を呼んだ。

<こぼれる涙 44>=12月20日・毎日新聞佐賀面に掲載

 父、僕、弟、妹の4人で、窯の前へ静かに母を運んだ。
 母の前に二重扉の最初の扉が開き、次に厚い上下式の扉が上へ開いた。
中から母を載 せる台が現れた。
僕らは母を抱え、その台の上へ置いた。
 僕らの悲しみ、苦しみとは別に、淡々と事が進んでいる。
ここの職場の人たちにとっ ては日常のことなのだ。
「死とは、これ程当たり前のことなんだ」
と自分に言い聞かせ た。 
母をのせた台が中へ入っていく。
 隣で弟が
「ああ、行ってしまう」
「ああ、これで最後だ」
「ああ、行ってしまう」
と 、小さくつぶやいていた。
 扉が閉められ、母は、別の世界へ行ってしまった。
 すべてが、終わった。
 待合室で1時間半待った。
長くも短くも感じなかった。
ただ待った。
 もう母はいない。
 母は、心の中にしかいなかった。
目を開けていては、母は見られない。
母は、静かに 心で対話する時にだけ現れる存在となった。
 目を閉じ、閉じられた目から涙がこぼれる。あまり目を閉じていると、闇の世界に埋 没してしまい、心が破裂しそうになる。
 我慢ができなくなって目を開ける。
大きくため息をつき、心を整え、現実に戻る。
 そんなことを繰り返すうち、呼び出しがあった。
いよいよ、母の骨を拾うため、再び みんなが集まる。
 母を窯の中へ入れた所とは別の場所に行った。
しばらくすると、厚い扉が開いた。
熱 が
伝わってくる。
一同はっとして、緊張した。
妹は
「見たくない」
と言い、顔を背けた 。  そこには、ほんの一握りと思える程、小さく少ない、母の骨があった。
「ピチ、パチ 」
と音がしていた。
「母はこんなに小さかったのか」
と思った。
 父が最初に骨を拾い、つぼの中へ納めた

僕たちも、順に骨を拾った。
小さな白い骨 つぼにみんなきれいに納まってしまった。もう涙はなかった。
 弟が
「兄貴、インドネシアでは土葬にする。何度か立ち会ったけど、火葬の方がいい よ。燃え尽きて、潔く心の切り替えが早くできると思う。土葬は、いつもそこにいるよ うで、悲しみが癒えない」
と言った。
 骨つぼを箱に納め、白い布で包み、僕が持った。
他の肉親を亡くされた人たちとすれ 違った。
彼らの間を通り、外へ出てみると、玄関にバスが待っていた。

<こぼれる涙 45>=12月21日・毎日新聞佐賀面に掲載

 今度は火葬場から、母と共にバスに乗る。バスは静かに走り出した。
僕はその時、熊 谷守一の「焼き場の帰り」という絵を思い浮かべた。
 それは熊谷が、自分の息子を亡くした時の絵だった。
黄土色の中に単純化した人物が 焼き場から帰っている絵で、中央に白い布に包まれた骨つぼを持った人物がいる。

その 人物に、自分がなったような気がしていた。  バスがなだらかな坂を下りて行く。車窓から、佐賀平野とその向こうに広がる有明海 が見えた。その大きさと美しさに、僕は心を奪われた。
 母がこの空全体に広がっている。
どんどん薄く、しかし大きく広がっている、そう思 った。
 バスの中では、僕の耳にもう音楽は鳴っていなかった。
   ◇   ◇
 母の死後10カ月たってこの原稿を書いている。
それまでは、本当にテレビや新聞など を一切見ることができなかった。僕の仕事である絵も描けなかった。
 唯一、版画だけは出来た。
版画は、手順を踏む工芸的な要素が多い。
断片的に悲しみ に襲われたり、心が乱
れボーッとする時が必ず日に数回はあったが、版画の作業には没 頭することができた。  何も考えず、今までの経験に身を任せられる版画しか出来なかった。
油彩のようなイ メージの集中が大切な作業には、僕は耐えられなかった。
それが10カ月目に入って、や っと心が集中できるような状態になって来ていた。
 これならば母のことが書けるかも知れないと思い、動き出した。
一行書く度に当時の ことが思い出され、涙が止まらなかった。
しかし、この涙は以前と違い、僕の心を癒し てくれる作用が強くあるように思った。
 僕の心がやっと、振り返られる時期に来たのかもしれない。
僕の心は決して元には戻 らないけど、今ならそれを自分で追体験することにより、新しい、しかも前向きな心を 持てると、この原稿を書きながら確信した。
 通夜と葬儀の時に、母の“教え子”である宮崎美樹子さんが、ふと思い立って、家に あった母の「街角教育かわら版」をコピーし、報道陣に配布した。
それ以降の報道は、 事件と母の教育の仕事のこととの二本立てになっていった。
 教育者であり、17年前に教育の危機を叫んで乳幼児教室を始めた母と、母を殺害した 17歳の少年||このコントラストは強烈だった。

<こぼれる涙 46>=12月22日・毎日新聞佐賀面に掲載

 報道が母の教育の仕事に焦点を向けるようになっていったのは、僕にとってはとても ラッキーだった。
 それまで僕の心は、事件のコメントに耐えられる状態ではなかった。
取材に応じてい れば、間違いなく心は破壊されていたと思う。
 僕は事件についての取材
は一切受けず、ただ
「母の仕事については応じます」
という 態度をとるようになった。これは母親に対する供養にもなるため、何とかこなすことが できた。
 宮崎美樹子さんのとっさの思いつきで、僕の心が救われたわけである。
 さらに、彼女の
「幼児室で学んだお母さんたちの手記をまとめる」
という発言が報道 され、母の本の出版という事態にまで発展した。
 母の望みが、母の死後、次々とかなえられていると思った。
母のことを思うと悲しく てたまらないけ
れど、母の仕事が、母の死によって生きたと思うことで、まだ最悪では ないと思えた。  他のいろいろな事件の被害者の方からも数多く手紙が寄せられ、僕は新たに知る事実 で少なからずショックを覚えた。
 何より一番、日本の犯罪被害者に対する心の無さを痛感した。
 この国においては、被害者は一切が個人で立ち直ることを前提にしている。
少年犯罪 であれば、少年の更正のことは考えるが、被害者のケアは無いに等しい。
被害者が立ち 直れないで、よく少年だけが更正できるものだと、その議論がアホらしく思えた。
 僕たち犯罪被害者は、本当にひとつずつゆっくりと、再生の道を歩んでいる。
 火葬場の帰りに見た、胸のすくような佐賀平野の広がり。
その開放感が、心に焼き付 いている。<
br>この広い地球上どこにいても、母の「気」が、薄く広く、充満しているよう に思えた。  そんな安心感が、母の死後、僕の心の中に芽生えたことも事実である。
初めて、自分 が死ぬことを恐くなくなった瞬間でもある。
   火葬場へ向かう途中で心の中で鳴っていたベートーベンの交響曲第7番は、僕にとっ て特別な曲になった。
心が沈んだ時、悲しい時には必ず、この曲にすがってしまう。母 に甘えるような気分だ。なぜなら、僕の母は、、とても強い人だったから。
 今、僕は、死ぬ時には母が迎えに来てくれると信じている。
そして、この曲で僕を送 ってくれる、と期待している。

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