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==================== <こぼれる涙 31>=11月27日・毎日新聞佐賀面に掲載 家の中では、西鉄との交渉が続いていた。 幸い、母の小学校時代の親友が西鉄OBで、彼が社長に口添えしてくれた。棺おけ代 と広島からの運送費、ニューヨークから帰国した妹の航空運賃、それに加えて、葬儀費 用を100万円出してくれることになった。 それでも、かなりの出費をしなくてはならない。 しかし、さらに妹のニューヨークの アパートから空港までと、福岡空港から佐賀市水ケ江の実家までの送迎もやってくれる ことになった。その心遣いに、一同胸をなで下ろした。 翌日(5月5日)の本通夜までの事務手続きは終わった。やっと静かな夜が訪れた。 水ケ江の家の台所の棚に、事件の日に母が、父の夕食にと作っておいたゴボウのてん ぷらがあることに気付いた。 母の最後の料理である。僕らはそれを一つずついただいた。 こんなに慎重に味わって 食べたことはなかった。 ふとテーブルの横を見ると、母の読みかけの本が置いてあった。 僕が読む前に、母に 貸しておいた本だった。 吉田松陰のことを書いた司馬遼太郎の「世に棲む日々」で、全4巻の3巻目の真ん中 にしおりがはさんであった。 この時から、この本を見る度に、胸が張り裂けそうなくら い心が乱れて、何度読もうとしても読めなかった。 この台所には、母の物があふれている。 それらの一つ一つに別れを告げてなければい けないことを痛感した。 それから、母の前に家族が集まった。 僕たちが広島へ出ていった後の家での出来事や 、広島でのことなどをお互いぽつぽつ話し始めた。眠れぬ長い夜を過ごすことになった 。 朝になった。妻が母の唇に紅を引いてくれた。 母は生前 「私が死んだらお経は要らない。あなたたちが私のためにピアノを弾いてち ょうだい」 と言っていた。 今この時しかその約束を果たすための時間はなかった。 僕は子供たちに 「おばあちゃんのために弾いてくれないか」 と頼んだ。 僕は毎日、彼 女たちのピアノを見てやっていた。 最初、長女の貴映が弾き出した。 続いて二女の沙紀 も弾いてくれた。 母が僕に教えたピアノが、母の前で僕が泣きながら練習したピアノが今、孫に伝わり 、母の魂を慰めるために奏でられている。 「きっと喜んでくれているに違いない」 と思いながら、僕はピアノを弾く娘たちを眺 めていた。 <こぼれる涙 32>=11月29日・毎日新聞佐賀面に掲載 やがて、子供たちのピアノの演奏が終わった。 僕も母のために弾こうと思って、ピア ノの前に座った。その途端に、涙がほおを伝った。 僕はそっと鍵盤に触れ「エリーゼのために」を弾き始めた。 でもしばらく弾くうちに 、涙が次々にあふれ出し、鍵盤が見えなくなってきた。 どうしようもないおえつが込み 上げ、途中から弾くことが出来なくなってしまった。 僕は落ち着きを取り戻そうと、し ばらくじっとしていた。 母は、リューマチで手が痛くなる前まではよくピアノを弾いていた。 中でも母の弾く 「乙女の祈り」は今でも僕の耳に残っている。 今、この時を大切にしなければと、涙を ぬぐい、もう一度弾き始めた。 「乙女の祈り」を弾いた。 しかし、一度出た涙は容易に止まることはなく、鍵盤がぐ ちゃぐちゃになり出した。 もう到底ピアノの前に座っていることは出来なかった。 僕は 隣の部屋へ行き涙をぬぐった。 止めようとすればするほど涙があふれ、流れるに任せて いた。 「お母さんの顔が……」と妻の声がした。 僕は振り返り、母の顔をのぞきに行 った。 妻が 「お母さんの顔が笑ってる」 と言った。 僕の目にも、解剖後にむくんで傷んでい たはずの母の顔が、笑っているような優しい顔に見えた。 午後になると通夜の準備で忙しくなってきた。 引き出物の手配、食事の準備、受け付 けのお願いなどあわただしく周りが動き出した。 僕の友達が大勢手伝いに来てくれた。 彼らが受け付けやその他の雑事を引き受けてく れて有り難かった。 友の顔を見るだけでしっかりと支えられているような気がしていた 。 いよいよ、通夜の会場へ行くことになった。 僕は弟の車で向かった。 車の中で昔の思い出をぽつりぽつり話し出した。 話すうちに僕が描いた母の油絵を並 べようということになった。 僕は大学時代、人物画を中心に描いていた。 いつでも描けるという単純な理由から、 3年間ぐらい母をモデルにしていたことがあった。 展覧会が近づいてくると、母は家の仕事が終わった夜11時ごろから夜中2時ぐらいま で、僕のためにモデルをしてくれていた。 大作を10点ぐらいは描いたと思う。 最初、母は化粧をしたり、きれいな服に着替えようとしていた。 僕は、生活に疲れな がらもたくましく生きる人物を描こうと思っていて、母の思惑とは随分違っていたよう だった。 <こぼれる涙 33>=11月30日・毎日新聞佐賀面に掲載 母を描く時、僕は母が持っている服の中でぼろぼろの物を探した。 だがそんな物が取 ってあるはずもない。 仕方なく、一番古い寝巻きを着てもらった。 母として、いや女性としては、やはり美しく描いて欲しかっただろう。 当時の僕は、 そんな考えはちらっとも思い浮かばなかった。 母の肖像画は、僕にとって一番思い出の残っている作品であり、本格的に絵を描こう と考え始めていた時期の絵だ。 作品は、久保田町の僕の家の倉庫に入れてあった。 もう何年も見たことがなく、どんな状態かも分からなかったが、とにかく通夜の会場 に並べたいと思った。 倉庫は家の裏庭に面した所にある。 その前に車を止めた。 あまり時間がなかった。 ず い分昔の作品なので、倉庫の一番奥まった所にあった。 喪服を着ていた僕と弟は、汗とほこりで服を汚しながらも、いろいろな絵を引っ張り 出してみた。 最終的にはその中から2枚を選んだ。 それは100号と60号の大作で、僕 が母を最初に描いた作品だった。 絵を弟の車に乗せ、佐賀市内の斎場へ向かう。 僕は、絵を並べられることに喜びを感 じていた。 母が企画してくれた展覧会のような気さえしていた。 ほどなく斎場に着いた。僕は通夜の会場の広さに驚いた。 椅子が400席ぐらい並んでいる。 こんな立派な場所で、堂々と母の通夜や葬式が行 えることに、母の無念さの代償とはいえ、うれしく思った。 しかし 「お参りの客がまば らだったら母が悲しむかな」 と、ちょっと不安にもなった。 中央の祭壇のすぐ右手に縦60号の母の絵、その横に横100号の絵を並べた。 両サイドの壁には花輪がずらりと並んでいた。 弟が撮影し、大きく引き伸ばされた母 の写真が中央にあり、花輪の一番上の方には自民党総裁・森首相の名前が書かれたもの もあった。 父はいたく感激していた。 母の絵は、足踏みミシンで縫い物をしている像である。 全体的に暗く重厚に仕上がっ ている。 母はヨレヨレの寝巻きを着ている。 厳しい母の顔。 あの当時の母が浮かんでくる。こ の絵を描いた部屋も時間も、家の様子も光の色も、すべてが僕の頭の中でよみがえった 。 あの時、必死でこの絵と格闘していた僕の姿も見える。当時、このような形で展示さ れることを知らなかった僕自身の心が哀れだった。 <こぼれる涙 34>=12月1日・毎日新聞佐賀面に掲載 祭壇のそばを離れ、受け付けへ行ってみた。 僕の友達7、8人が手伝ってくれていた 。 彼らの所 へ行き感謝の言葉を述べた。 昨日と違って、彼らも僕の目を見て話せるよう になっていた。 僕と友達は、通夜の受け付けの横のソファに座り、お互いの話をした。 やはり学生時代からの友達というのはいい。 一瞬のうちに昔に戻り、今この時から楽 しかった当時へ心がすぐに移動し、この現実をしばし忘れさせてくれた。 僕はふと、絵を描くことを思い付き、受け付けに立ってくれている友達に鉛筆とスケ ッチブックを買ってくることを頼んだ。 「どんな物でもいいから」 とお願いした。 再び受け付けから離れ、会場をのぞいてみると、弟が一人たたずんでいた。 彼は母の 傍らから片時も離れていなかった。 僕は、彼がまだ涙を流していないことが気になっていた。 広島で母の遺体を見た時の 、体と心のこわ張りがまだ続いているのだろうか。 涙を見せない弟の姿に、僕は逆に心 配になった。 それは父についても言えた。 父は、ただがむしゃらに事務をこなすことで、頭の中す べてをそのことだけに使っているような感じだった。 以前、テレビかラジオで、精神科の先生ががんを告知された時の患者の反応について 詳しく語っていたことがあった。 ただ黙ってその事実を受け入れる人と、大声を上げ自 分の不幸を呪う人とがいて、大声を上げ涙を流す人の方が立ち直りが早いとコメントさ れていたことを思い出した。 その言葉が頭に浮かび、弟と父のことが少し気掛かりだった。 もちろんそれ以上に自 分のことも心配であったのだが。 外はもう暗くなってきていた。 母を慕う人たちが一人また一人と通夜の会場に現れた 。 僕はそのうちの一人と目を合わせ、頭を下げた。 報道陣もだんだん増えてきて、駐車場にはたくさんの報道の車が止まっていた。 まる でテレビのワイドショーを見ているような気持ちだった。 なぜ、僕なのか。 なぜ、母なのか……。 この騒ぎを見ていると疑問がわいてくる。 みんなは分かっているのだろうか。 放送局の人は、なぜ自分たちが取材しているのか 理解出来ているのだろうか。 僕には、何もかもが疑問だった。 しかし時は確実に過ぎ、物事は進んで行った。 すべてが僕の手の中から滑り落ちた状 態のまま、何も動かすことができず、流れに身を任せておくしか方法はなかった。 ==================== |