● 天狗谷窯跡の位置付け
天狗谷窯跡は、長い間、日本磁器発祥の窯と考えられてきた。現在でも、「元和二年(1616)に李参平が最初に磁器を創始した窯」とする記述も目にするが、最新の研究成果では、最初の窯でないことは確実と言っていい状況である。しかし、初の本格的な磁器専焼窯として、その生産ノウハウを蓄積し、磁器生産を産業として育成する基盤となった窯である可能性は、極めて高いものと考えている。つまり、天狗谷での営みがなかったら、あるいは、その後有田は磁器の生産地としては生き残れなかった可能性すらある。このことは、ある面で磁器の創始に匹敵する偉業であり、“もう一つの磁器創始窯”と言っても過言ではないだろう。
● これまでの調査のまとめ
1965〜70年の調査は、窯体を中心に進められ、A〜E、Xと命名された窯体が発見されている。これにより、6基以上の窯があったと記される場合も多いが、正確にいえば、古い順にE窯、A窯、B窯、C窯の4基が順次構築され、D窯とX窯はそれらのある時期の窯体の一部であった可能性が高い。また、不明なため当時X窯としてまとめられた窯については、一つの窯体の一部ではなく、複数の窯の一部である可能性が高い。
こうした状況を踏まえた昨年度の調査では、露出展示を予定しているA・E窯の焼成室の遺存状態の再確認やA・B窯の胴木間の再確認、物原の堆積状況の確認を行っている。
A・E窯の焼成室は、70年以降特に劣化は進んでおらず、良好な状態で検出された。
A窯の胴木間は、70年までの調査をまとめた報告書の図では、類例のないかなり不可思議な形状をしていたが、これは調査の際の掘り方の誤りであったことが判明した。しかし、当時はまだ調査例が少なく手探り状態であったことを考慮すれば、仕方のないことであろう。B窯の胴木間については、調査地点では確認できなかったため、本年度あらためて確認することにしている。
物原については、このHPでも逐一ご紹介してきたとおり、かなり中途半端な状態で調査を終えることになった。その詳細については、まだ昨年度分の調査報告もこのHP上に残しているため、ご確認いただきたい。しかし、その後、少し考え方をまとめてみたので、ここで触れておくことにする。
昨年度調査した物原の位置は、A窯の下から第11・12室境の南側(右側)の部分である。昨年報告したように、突如として掘らければならない状況になったが、特殊な小山のような物原で、頂部は樹木が密集している状態では、奥行きは3mほどが限界であった。
ここでは、A窯とE窯の作業段が重なった状況で検出され、その上に物原層が堆積していた。当時は、この物原層の位置付けやA・E窯の物原の位置の想定に、やや迷いがあった。
しかし、現状での考え方をまとめてみれば、検出した物原層は、A・E窯の作業段の上に堆積しているため、帰属する窯はA窯よりも北側に位置し、より新しいB窯かC窯ということになる。しかも、土層から出土している製品には、B窯と同等かより古いと考えられてきたD窯の製品と類似したものが多いため、必然的にD窯はB窯の一部で、検出された物原層はB窯のものとなる。
C窯の製品についても、表土層からは多く出土している。しかし、昨年度の調査では明確な当時の層は検出できておらず、A窯の調査の際にすでに壊されてしまったか、もっと奧側に位置するのか、今回の調査で判明するはずである。
また、古いA窯やE窯の物原層については、やはり当時の廃棄スタイルを考えれば、さらに奥側に位置する可能性が最も高いように思われる。
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