新発見の赤絵工房跡(?) |
所 在
地:佐賀県西松浦郡有田町1522番地 |
今日は大みそか。20世紀最後の日だからというわけでもないが、締めくくりに、先日飛び込んできたちょっとホットな情報をお知らせしておくことにしたい。赤絵工房跡の可能性の高い、幸平遺跡(1521・1522番地)の発見である。発見は半月前の今月15日、まだ、22日付けでようやく周知の遺跡として登録されたばかりである。「まったく予想外の場所で予想外の性格の遺跡を発見」というのが正直な感想で、これまでの通説の再考を促すものとなることは間違いない。 |
● 発見の経緯 有田町幸平に位置する上有田交番が、老朽化に伴い今年度事業で建替えられることになった。伝統的建造物群保存地区内であることから、それに先立ち、当初は、建物の景観上の点から、佐賀県警と有田町で協議が行われていた。この場所は周知の遺跡の範囲内ではないため、埋蔵文化財担当の立場としては静観していたが、12月15日にようやく建物上はGOサインが出され、さっそく建物の基礎掘削に取りかかることになった。そこでまったく予想外に発見されたのが、幸平遺跡である。 (近景)
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● 発見されたもの この場所は水脈が浅く、地表から2mほども掘るとどんどん水が沸いてくる。そのため水中ポンプを設置するための穴を掘り、そこから重機で周囲に向って掘りはじめた。磁器片がパラパラと混じっていた。しかし、これは窯業の町である有田の常で、それ自体遺跡であることの証拠とはならない。ところが、その中に1点色絵片らしきものが混じっているのを発見。17世紀後半の初期輸出タイプの製品であった。もしかして…、という気も一瞬よぎったが、ここは赤絵町ではなく幸平である。まさかそんなこともないだろうと思い直した。しかし、よく見ると、重機のバケットから一杯、二杯と上がってくる土の中に、ぱらぱらと色絵片が混じっていることを発見。しかも、出土する磁器片は白磁の割合が異常に高い。これは、以前赤絵屋が発見された赤絵町の郵便局の敷地と類似している。あらためて、これはもしかしたらと思い、出土する土層の上面までで掘削を止めることにした。さらに掘削面が広がると、点々と杭や柱が残っているのが明らかになり、また、絵具を入れた状態の碗や上絵具のテストピース状の施文がされた磁器片なども出土した。 (掘削面)
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● 出土品 この遺構上面までの掘削で出土した製品は、約100点ほどである。もちろん全体的には染付が多いが、含まれる白磁の量も、通常の組成から見れば、一見して分かるほど多い。そして色絵がぱらぱらと混じっており、ほかに青磁なども出土している。 今回は、その中で色絵3点を掲示してみた。1点目は碗で、いわゆる嗽碗と称される種類のものである。内面には赤と緑で牡丹の文様が描かれている。2点目は油壷で、赤絵具を主体として胴部の4方向に丸文を配し、その中に花卉文、周囲を地文で埋めている。3点目は壺で、やはり赤主体とした横帯文などが施されている。何れも1660〜70年代前後の製品と推定されるもので、また、意外にもこれ以後染付製品などは散見されるが、色絵製品は皆無である。 (内面) (外面)
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● 発見の意義 まだ、赤絵屋の遺構であると決まったわけではないが、その可能性はかなり大きいものと推定される。 有田の上絵付けの工程は、当初各々の窯場で行われ、いわゆる古九谷様式と称されるものが生産されていた。しかし、おそらく1650年代後半頃に上絵付けの工程が分業化され、現在の赤絵町周辺に集められたと推定される。その数は、赤絵町に9軒、隣接する幸平に2軒、合計11軒であったと云われており、今回ほぼ間違いなく、確かに赤絵町以外にも存在した可能性が高くなった。 しかし、謎も多い。赤絵屋は18世紀には16軒に増やされたことが文献から分かり、従来何となく単純に5軒増やされたものと考えていたが、仮に今回発見された例が幸平の一軒だとすれば、なぜ、18世紀の色絵製品が出土しないのか。仮に17世紀後半の短期間の赤絵屋であったのならば、従来の捉え方をあらためて問い直してみる必要がありそうだ。こうした点を考慮すれば、あるいは、当初から藩により11軒と定められたのではなく、周辺に集まっていた赤絵屋の中から後に11軒が選択された可能性すら否定はできなくなってしまうのである。 また、出土品の中には相当量の染付製品が含まれ、しかも、1点だけではあるが、動物の置物(?)成形用の土型も出土している。こうした出土状況は、赤絵町の郵便局の部分での出土状況と類似しており、あらためて赤絵屋の業務範囲を考える上での重要な類例となる可能性も秘めている。
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