'01天狗谷跡発掘調査速報

 所 在 地:佐賀県西松浦郡有田町白川
 調査主体:有田町教育委員会




● 10月21日(日) 発掘が終わって、これから保存処理に入ります。 



 発掘調査は、実質的には10月4日(木)に終了しました。その後、準備作業の後物原の土層剥ぎ取りを済ませ、現在は物原や窯体の一部を樹脂で固めて保存処理を行う準備を進めています。
 前回から、これまでの成果を踏まえて天狗谷窯の調査まとめをお話ししていますが、今回もその続編をお伝えします。
 


 

 そう言えば、今年の調査内容についてお知らせするの忘れてました。
 今年の調査は、復元のための正確な位置確認を行うため、B窯の焼成室中程に2ヶ所の試掘溝を開けました。それから、B窯とA窯の胴木間。これは、昭和40年代の図面の再検証とB窯の胴木間の位置が今回掴めていなかったからです。それから、昨年度事業で撤去した下部の建物部分に物原が遺存しているかどうかの確認も行いました。
 前回は、天狗谷窯跡の立地についてお話ししましたが、今回は、この中でとりあえず、天狗谷窯の物原の捉え方(基本編)を、これまでの成果も合わせて示しておこうと思います。


 再三記しているので言うまでもありませんが、失敗品を廃棄した天狗谷窯跡の物原は、窯体の右側(南側)に位置しています。しかも、通常の窯のように谷側が廃棄場所として選定されていないため、最終的には窯体よりも高く小丘のようになって土層が堆積している状況です。
 この理由は、前回の地形について取上げた際にも述べましたが、残念ながら皆目分かりません。しかしこれまでの調査の結果、まったく最初から谷はなかったことは明らかなので、最初はそんなに長くここで焼き続ける考えはなかったのかもしれないと、漠然とは思ってしまいます。

 物原の調査は、これまで3年連続して行っており、最下(西)の焼成室下部から最上(東)のD窯(昨年度B窯の一部であることが判明)の横までの間に、4ヶ所以上の試掘溝を開けています。つまり、これらの試掘溝から共通して抽出できる要素は、もはや天狗谷窯の物原の一般的状況として捉えていいのではないかと思われます。

天狗谷窯跡全体図(昭和40年代の発掘時)


 ごく基本的な物原部の造成を示してみると、まず、もともと丘陵の傾斜は最初にE窯が構築される段階では、窯のすぐ脇まで迫っていたものと推定されます。そしてE窯構築の際に丘陵の裾を平らに削って各焼成室横に作業段が築かれています。そして、部分によってはその先(南側)をもう一段階段状に平らに削って平坦面を造り出しています。ここの平坦面に堆積した土層から、E窯の製品がいくらか出土していますが、これについては後日述べます。
 E窯に続くA窯は、E窯を埋めたその直上に築かれていますので、作業段も粘土を貼ってほぼ同じ位置が利用されています。また、E窯でもう一段平らな面を造っていた部分などには、造成の際の廃棄土と推定される土が山状に盛られていました。そして、その山状に盛った土と自然傾斜の間にできた窪みには、古い段階のA窯の廃棄層が堆積していました。もう、すでにこの廃棄で窪みはほとんど埋まってしまっているので、ほとんど自転車操業的に廃棄場所を確保しないと失敗品や窯の補修の際の窯壁片などは廃棄できない状況だっただろうと想像されます。その結果、より新しいA窯の廃棄層は、徐々に作業段の隅から窯体側へと迫ってきていました。


作業段から続くE窯物原部の平坦面(昨年度調査/南東から)

 写真右上が作業段側(北)である。E窯構築時にはそこから丘陵側(南)に一段上がったところも平坦面が造り出されていた。断面では、この平坦面の直上に厚く堆積する黒土がE窯時の層である。その上にA窯構築時の黄色土が堆積し、さらにその直上に窯壁片や遺物を多く含むガラガラ状態の赤褐色のA窯段階の物原層が堆積している。この赤褐色土層が、右側で深く落ち込んで厚く堆積し、A窯の作業段に迫っているのが分かる。

 

 続くB窯は、窯体を一窯分北側にずらせて、しかもA窯よりもさらに数10cm高い位置に築いています。北側にずらせたことにより、実質的にA窯の上部まで作業段を除いて廃棄場所が確保できたことになります。また、窯の位置を高くしたことで、より高く廃棄できるということです。したがって、昭和40年代の発掘の際に、A窯直上の廃棄層は完全に除去されていましたが、それでもB窯に帰属すると考えられる層が、全体の大半を占めるという状況が生じていました。
 これに続く最も新しいC窯は、B窯の直上に築かれていますが、さほど高差なく重なっていました。C窯に帰属する物原層と推定されるものはいくらか残っていましたが、厳密に言えば、B窯の層との区別は明確ではありません。なぜならば、EとA、AとB各窯間の帰属土層の識別は、E、Aの窯体から作業段を経由して物原側に土層を追って行くという方法でほとんど可能です。もっと具体的に言えば、逆に、物原の土層を窯側に追っていくと、E窯に帰属する土層であれば、E窯の作業段上に高く堆積することや本体の上にまで被ることはありません。窯として機能しなくなりますので。これはA窯も同様です。したがって、A窯の上に被っている土層は、B窯のものということになります。ところが、BとC窯間の区別は、この方法が使えません。それは、昭和40年代の発掘調査の際に、A窯を掘るためにB窯やC窯の作業段や窯寄りの物原層のあった部分がすべて壊されてしまっているからです。たしかにB窯の窯体は残っていますし物原層も残っているのですが、それが途中寸断された状態なのです。したがって、もはや土層の繋がりという最も客観性の高い方法で、層の帰属を考えることができないのです。

 余談になりますが、今から20年ほど前までの発掘調査は、主としてひたすら窯体に沿って上へ上へと、あるいは下へ下へと、焼成室を探して掘って行くという方法が一般的でした。また、物原よりも、とりあえず窯体重視という考え方が一般的でした。これは調査や研究が今ほど進んでいなかったため、窯体の先がどうなっているのかという予測が、今ほどできなかったことも一つの理由です。しかも、最後は焼成室がずらっと並びますので、見た目の迫力も抜群です。また、年代については、かつてはもっぱら個々の製品の形式学的観点から考察されていましたので、付近で採集するとか物原部分をほじくってみるとか、窯体内の出土品を待つとか、その程度で事足りたため、今のように、物原、物原、と声高に叫ぶような必要がなかったのです。

 まあ、それで前述したように、困ってしまっているのですが、こればっかりは今さら嘆いても仕方がありません。これはいろんなところで再三書いていますが、盗掘も同じなのです。たとえ盗掘された製品が後で戻ってきたとしても、壊された土層は二度と復元できないからです。だから、盗掘というものは歴史研究上は意外とも思えるほど被害の大きいものなのです。ちなみに、現在の調査は以前のように窯体を縦方向にずらっと掘るというよりも、同じ面積ならば窯体から物原側に試掘溝を通す横方向重視の調査に変わっています。たしかに、これは見た目には迫力がなく、一般の方々にはなかなか窯の全体像をイメージしにくいのですが、窯体から物原層まで連続するプライマリーな層を将来再び調査できる状態で残すことができます。調査レベルや研究の進展具合によって得られる成果や求められるレベルは違ってきますので、これは重要なことなのです。その代りと言っては何ですが、調査や研究がずいぶん進んできましたので、たとえば図上で窯体の全体を復元するとか、掘ってない部分を高い精度で推測するとか、かつてはできなかった方法が取れるようになってきています。

 話しがまるで考古学概説みたいになってきましたが、今回はとりあえず天狗谷窯の物原の堆積状況とその捉え方の基本をお話ししてみました。次回は、この堆積状況から何が言える、あるいは推測できるのかということについて、お話ししてみたいと思います。



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