韓国・分院里窯跡発掘調査見学記 −01.08.01〜05、11.17− |
本日ご紹介しようと思っているのは、韓国の梨花女子大学校博物館が発掘調査された、分院里の窯である。1752年〜1853年に李朝官窯である最後の分院が置かれた場所で、調査は今年の7月から10月までの4ケ月間実施されている。8月と11月の2度お招きいただき、現地を訪れる機会に恵まれた。 *内容については万全を期したつもりですが、聞き違え等により誤りがないとは言えないので、正確さを要するような場合は別途ご確認ください。
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分院里位置図(1/150,000) |
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窯跡の位置する分院里は、ソウル特別市の東、京畿道広州市南終面に位置している。ソウルを南北に二分する漢江の上流沿いにあり、車でおよそ1時間半くらいの距離にある。この分院里の付近は、やや上流で北漢江と南漢江が合流し、川幅が1〜2kmほどにも達しており、八堂湖と称されちょっとした観光スポットとなっている。 |
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朝の漢江 |
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梨花女子大学校博物館(2001.11.16)
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ここで、とりあえず最初に、調査を実施された梨花女子大学校博物館を紹介しておくと。 |
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坂を登ったところに小学校があり、その付近が窯跡。入口には窯跡の案内板が建っている。 |
というところで、話しを窯跡の方に戻そう。 |
調査地点位置図 |
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A地区調査風景(東から) 升目(グリッド)状に分割して掘る方法は日本でも一般的。状況を把握するためや見学者の便をはかるため、とりあえず、表土は広めに開けられていた。 遺物の出土状況 遺物には製品、窯道具、窯壁片などが見られる。しかし、19世紀頃の窯なのに、日本のようにトンバイ(耐火レンガ)は見られない。 |
8月に訪れた際は、調査はまだA地区の表土を剥いだくらいのところであった。ここは旧小学校の校庭部分で、校庭を造る際の大規模な造成により、地形が大きく変えられていた。 |
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ここへは、数年前に一度来たことはあるのだが、真冬の積雪の中であったため、こんなとこだったかなという印象。最初は土地勘がないこともあり、遺跡の状況を把握するのに戸惑ったが、一日周囲をぶらぶらしているうちに、何とか状況が掴めてきたような気も。不思議なもので、いくら遺跡ばかり眺めていても、遺跡のことはすんなり頭に入ってこない。 |
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深掘りされているトレンチの土層を見ると、物原部分は、斜め方向に整然と堆積する土層が良好な状態で遺存していた。窯差も大きいのだろうが、有田の窯の物原層などと比べると、各土層に含まれる砂が細かく、個々の土層が薄い感じである。また、土層間の土の違いは明確な部分が多いため、層の区別は比較的容易そうである。造成の際丘陵の上部がカットされているため、この付近の窯体は遺存していない可能性が高い。 |
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掘っているのは、ソウル在住の藤川幸夫さん。この方本業は別にお持ちだが、並みのプロでは及ばないくらい韓国陶磁にやたら詳しい。 |
いっしょに現地を訪れた琉球大学教授の池田榮史さんと話して、物原の層位的調査が必要なのではということになり、翌日は羅先生の許可を頂いて、実際に掘り方を実践してみせることになった。まだ調査例の少ない韓国では、少なくとも窯跡に関しては、土層単位に考えるという習慣は、根付いていないように思われたからである。もちろん、林さんなども、物原の層位的調査の大切さは十分理解していたが、いざ、実際に土層ごとに掘ることは、ちょっとしたノウハウの蓄積も必要であり、意外に難しい。 |
実は、現状では格段に調査例の多い日本でも、こうした物原の調査が一般的になったのはここ20年ほどのことである。たしかに、一つの調査だけでは、その有効性を感じることは難しいかもしれない。しかし、これはまるでボクシングのボディーブローみたいなもんで、積み重ねるほど効果が倍増する。もちろん、現在の肥前磁器も、基本的にこうした資料によって編年観が組み上げられており、たとえば、今では大きな年代的な狂いなどは、生じにくい状況となっている。すでに、複雑に入り組んだ網の目がかなり小さくなっており、強引に一つのものの位置付けを大きく動かそうとしても、現実的には編年全体を動かす作業が必要なため、そのものだけ動かせば済むという次元ではなくなっているからである。 |
最初は、なぜ各層の遺物が絶対に混ざらないようにとしつこく注意されるのか、意味がよく分からなかったようだった。 |
実際に物原の土層を掘ってみると、やはり、有田の窯の土層などと比べると比較的その識別は容易であった。 |
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左側の白っぽいのが製品。中央の青味を帯びたものは窯道具類、右側の黒っぽいものは窯壁片である。分院と言えども、製品の大半は白磁である。 |
翌日さっそく主なものを洗ってもらうと、やはり製品組成などに、層による多少の変化があることが確かめられた。ただし、分院の窯であっても製品の大半は白磁なので、染付主体の日本などと比べると、その変化を追うことは難しい。 |
匣鉢や焼台類などがあり、匣鉢には専用品と碗などの転用品が見られた。 |
A地区の窯場の操業は、1853年の分院の終焉後、民間経営に移行した時期を含むと考えられている。つまり、大概的には19世紀の資料として位置付けられるが、ここで出土している窯道具類は、有田の窯場の感覚では、捉えられないものであった。特にハマなどは手捏ね成形の円板形で、有田では17世紀のものに近い。また、逆台形のものなどもなく、こうしたハマはやはり中国影響である可能性が高い。 |
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「日本における近世陶器と窯跡の研究状況−九州・琉球を中心に−」のテーマで発表中の池田さん |
11月の訪問は、梨花女子大学校博物館主催の「陶磁史研究方法としての‘発掘’」の国際シンポジュームの際であった。16日(金)にシンポジュームが行われ、17日(土)に現地見学として、分院里をはじめいくつかの窯場を見学した。 シンポジュームは、特別展に併せた企画で、昨年は甕・壺などの陶器に関して行われている。今年も、韓国の第一線でご活躍の研究者の方々による青磁、白磁、陶器などの発表があり、日本に関しては池田さんとわたし、中国に関しては景徳鎮陶瓷考古研究所副所長の江建新さんが発表を行った。みなさんの発表内容については、韓国語がよく分からないのでごめんなさいというと言うしかないが、興味をお持ちの方は発表資料集が刊行されているので、そちらをご覧いただきたい。 |
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羅先生による現地説明 |
翌日は、貸切バスで近郊の窯跡を見学した。再び訪れた分院里は今年の調査を終了し、この日の見学を待つばかりの状態であった。 |
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発掘中は現場事務所としてフル稼働していた旧校舎内には、展示ケースに納められて、出土した染付製品が展示されていた。 |
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B地区(南東から) |
実は、夏にわたしが帰国してすぐ、B地区で窯体が発見されたという話しを聞いた。やっぱり、窯の調査は物原も大事だが、何と言っても窯体が出ないと締まらない。この間の悪さは…って思ったが、嘆いてもしょうがないので、この時は、何よりも窯体を見るのを楽しみにしていた。 |
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窯体全景(西から) 同時期の有田の窯は、焼成室の横幅が7〜8m程度、奥行きが5m程度あり、平面形は横長である。 |
窯体模式図 (注意:こんな感じという図なので、正確ではありません。) うち1基は、部分的に天井部付近まで窯壁が残っており、予想以上に良好な状態で遺存していた。胴木間と下から3室目の途中まで掘られていたが、上部はさらに続くらしい。下から2室目の焼成室で奥行約4.8m、横幅3.0m、天井高は1mちょっとというところか。 |
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A地区の出土遺物から予想できたように、窯体は全体が塗り壁式で、耐火レンガは使用されていない。温座の巣を造り出す分焔柱も円筒形に近く、方柱形の耐火レンガを用いる肥前の一般的な窯とは異なる。あえて、近いものを探せば、肥前の最初期の岸岳系の窯が、類似した柱を使用しているくらいである。焼成室間には段差がなく、下室床面の高さから、奥壁が設けられている。 |
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火床は平らら多少窪む程度で、砂床は奥壁側へと上がっている。ただし、火床と砂床の境に火床境は設けられておらず、境目は明確ではない。焼成室が縦長で側壁のラインが直線的なことなど、構造的には肥前では最初期の割竹式の窯に近く、この窯もおそらく割竹式の可能性が高いものと推定される。 |
以上のような点から分院の窯は、肥前の同時期の窯とはかなり異なり、むしろ朝鮮半島から製陶技術が導入された1590年代頃の窯に、より近似していることが分かった。 |
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調査参加者全員で記念撮影(8月3日) |
今回は、ちょっと趣向を変えて、韓国の窯跡調査の見学記を記してみた。このホームページでもたびたび記しているが、肥前の窯業を語るのに、朝鮮半島や中国の窯業との関係を抜きにして考えることはできない。そのため、時々足を運んでいるのだが、意外に日本の中でこうした最新資料が紹介されることは少ないので、今後はたまには、取上げてみてもおもしろいのかなと思う。 とにかく、今回は、羅先生や梨花女子大学校の方々をはじめ、多くの方にお世話になりました。そして藤川さんには、博物館との間に入って奮闘していただくなどお手数をおかけし、大変感謝しております。 |
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