中国・福建省と肥前の窯の比較(1)


 


 今年も中国の福建省の窯跡の見学に行ってきた。実際に調査した状態で見れたのは、昨年も訪れた福建省平和県の陂溝窯跡だけであったが、ほかにも同じ平和県の大龍・二龍窯跡やしょう浦県の赤土窯なども訪れることができた。
 肥前における磁器の成立には、この中国南部の技術が導入されていることはほぼまちがいない。しかし、近年では朝鮮半島で類例が見当たらないことなどもあり、肥前の窯体構造の成立をも中国南部に結びつけようという意見も見られるようになってきている。

 はたして、そうなのか?

 ここでは、何回かに分け、福建省と肥前の窯跡の窯体構造を比較し、それについて考えてみたい。とりあえず今回は、その手始めとして、福建省やしょう州地区の位置や窯場の分布など、基本的なことについて触れてみることにしよう。

    *文中「しょう」は、漢字ではさんずいに「章」と書くが、日本の文字にはないため平仮名で示す。以下同じ。



 

                  (福建省位置図)

 



 福建省は中国の南部、台湾海峡を挟んで台湾の西側に接している。面積は12万平方kmほどで、これは北海道の8万3千平方kmと比べてもさらに広い。人口は3千万人あまりで、省都といえる省の人民政府の所在地は福州市である。日本ではなんといってもウーロン茶の産地として有名だが、日本人の目には南部に広がるバナナ畑も印象的だ。
  


  

               (福建省の主な窯跡の位置)

   



 福建省の窯場といえば、宋・元代頃には青磁の同安窯(厦門市)や鉄釉の建窯(南平市)などがよく知られている。しかし、肥前の窯との関係において問題となる明末頃の窯場は、近年では“しょう州窯”という名で括られる場合が多い。文字どおりしょう州市を中心として分布する窯場の総称で、周辺の類似した製品を生産した窯場やその製品は、“しょう州窯系”と称されている。生産されている製品は、主として呉須手(呉須赤絵)や汕頭などと呼称されてきた染付や色絵で、やや雑な作りの製品が多い。
 この地域には、宋・元期にはすでにかなりの窯場が成立しているが、17世紀を中心としたその前後の時期には、福建省の窯業の中心地として成長した。しかし、その後は衰退し、中心は徳化(泉州市)あたりに移る。
 




  明・清代の窯場は、特にしょう州市城区の西側一帯の地域、平和県や華安県、南靖県、詔安県などに集中しており、これまで50個所以上の窯場が発見されている。正確には押さえていないが、この中で、前に紹介した陂溝窯跡をはじめ、花仔楼窯跡、大龍窯跡、二龍窯跡、田坑窯跡など、平和県を中心にいくつかの窯跡の発掘調査が行われている。

しょう州市内窯跡分布図


 



  と、ここまで書いたところで、説明しておかなかれば、たぶん理解しづらい方も多いだろうということに気付いた。
 当然ながら、中国の行政区分は日本とは異なるということだ。
 ちょっと複雑なので詳しくは説明しないが、とりあえず中国の場合、各地域は大きく直轄市や省、自治区などという区分に分かれている。ここまでは多くの方がご存知だと思うが、ここからがちょっと複雑、市や県という区分があるが、その中にもレベルの違いがある。福建省の場合、日本の県くらいのレベルにあたる市が、福州市をはじめ7つあり、加えて2つの地区がある。その一つがしょう州窯の所在するしょう州市である。この中にさらに日本の市町村くらいにあたる市とか県、区などがあり、その中がさらに鎮とか郷などに分かれている(本当はもっと複雑)。つまり日本ではちょっとなじみが薄いが、たとえば平和県の場合は、しょう州市という「市」の中の一つの「県」ということになる。


             


 

 今回は、手始めに福建省やしょう州市について簡単に説明してみた。窯場の理解には、環境を知ることが不可欠であるため、たぶん横道にそれることも多いとは思うが、これからじょじょに核心に触れていくことにしたい。

 



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