白磁富士山形皿            (天狗谷窯跡/1650年代)

 

 

(内面)

(外面)

 昨年調査を行った天狗谷窯跡の出土遺物を整理していて、ちょっと意外なものが目に止まった。絶対にあっていけないと言うわけではないが、“こんな窯でも!?”という印象である。3分の1くらいしか残っていないため、やや全形を想像しにくいかとは思うが、富士山形の型打ち変形皿である。
 遺存部の上下幅が約9.5cm、左右は本来おおむね14cm前後かと推定される。山の頂きにあたる部分の口唇部のみ口銹が施され、中と右は欠落しているが、もともと三つの凸部で噴火口部分が表現されていたものと推測される。遺存する左凸部下の見込みには、積雪にあたる型打ち文様が施され、山裾から底面にあたる部分の口縁部は、幅8mm前後の平らな面を作っている。外面は糸切細工によって、やはり山形に高台を貼り付けており、畳付内外の釉を1〜2mmほど剥いでいる。
 ところで、こうした白磁の富士山形の皿は、これまで町の東端に位置する楠木谷窯跡で、ほとんど同形同大のものが複数出土している。楠木谷窯と言えば、初代柿右衛門である喜三右衛門による赤絵開発の有力な候補窯であり、『酒井田柿右衛門家文書』によれば、喜三右衛門が金銀焼付にはじめて成功した後、「錦手富士山之鉢、ちょく」を「丹州様(佐賀藩2代藩主鍋島光茂)」に献上したとあることなどから、むしろ「やはり出土したか」という印象であった。しかし天狗谷窯の場合は、本来皿類のかなり少ない窯であり、「こんなものまで…」という感じは拭えない。
 この両窯の結びつきを表すものかどうかは今のところ明らかではないが、以前楠木谷窯出土製品で示した「芭蕉」銘を配した製品は、この天狗谷窯でも出土例が認められる。また、天狗谷窯の開窯の有力な候補者である金ケ江三兵衛の記録には、「中樽奧にも百軒ほどの釜を焼立て…」という記述があり、おそらく有田東端から山内町あたりの窯場を指すものと推定されることから、両窯に何らかの関係があった可能性も否定はできない。

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