色絵樹花文中皿          (中白川窯跡/1650年代前後)

 

 

(内面)

(外面)

 今年、防災工事の際に、中白川窯跡物原付近から同窯の染付製品などとともに出土した色絵中皿である。二次堆積層中からの出土であるため共伴関係等は不明であるが、操業期間中の製品と推定されるされるため、同窯で焼成された素地に絵付けされた製品である可能性は高い。
 中白川窯跡は、天狗谷窯跡の南側に近接する窯場である。『竜泉寺過去帳』(西有田町)によれば、万治二年(1659)の記述には「中白川」の名称が認められるが、寛文11年(1671)には「白川」となり、白川地区から上、中、下の区別が消滅する。このことから、1670年代初頭以前に上白川山の窯である天狗谷窯跡や中白川窯跡が廃窯となり、下白川窯跡に統合された可能性が考えられるが、実際に各窯の発掘調査成果もそれを物語っている。
 出土した色絵製品は幅1cmほどの折縁とし、口径21cm前後、底径9cm前後と推定され、器高は2.2cmほどの浅めの皿である。
 内面には黒で輪郭線を取り、赤、緑、紫、黄絵具で塗り潰された、樹木文が描かれている。絵具が剥落しているため写真では見えにくいが、樹木の右下にも、赤で描かれた花文がうっすらと見える。全体が分からないため明確ではないが、葉の描き方などからみて、柘榴の樹ではないかと推定される。また、見込みの周囲には赤絵具で一重の圏線を迴らしている。
 外面は赤絵具を用い、口縁部と腰部に一重、高台外側面に二重の圏線が迴らされている。
 絵具の色調は濃く、赤絵具はいわゆる古九谷様式の製品に通有な赤紫に近い感じのタイプで、1660年代頃には一般的になる朱色を帯びるものではない。また、高台径が小さめで、同様な形状の皿はいわゆる初期伊万里から継承されているものであるが、外面腰部に圏線を迴らすものは1650年代頃から認められるため、ほぼその頃の製品と考えて間違いないだろう。
 内山地区の窯では、これまでに色絵素地は多く出土しているが、実際に上絵を施した製品の出土例は少ない。そのため、なかなか生産や製品の状況を把握しにくい状態であり、その参考となる資料として重要である。

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