青磁透明釉掛分け碗       (幸平遺跡/1650年代中頃〜後半)

 

 

(側面)

(底面)

 幸平遺跡は、有田警察署上有田交番の改築に伴い、昨年2月から4月にかけて発掘調査を実施した遺跡である。本HPでも調査の経過をご紹介してきたが、現地調査の終了後、これまで資料の整理作業を行ってきた。現在は発掘調査報告書を作成している最中であるが、これからしばらく、それに合わせて出土遺物のいくつかを紹介してみたいと思う。
 幸平遺跡は、色絵製品が多量に出土している遺跡である。詳細は別に譲るが、おそらく17世紀後半には赤絵屋であったと推定される。しかし、人が住みはじめたと推定される1650年代中頃の最下の遺構や層では、いわゆる初期伊万里と称されるタイプの製品が、比較的多く出土している。
 この碗は、そうした最下に近い土層から出土している製品の一つで、出土層の下限は、おそらく1660年代初頭前後頃と推定される。やや酸化気味に焼上っているため、黄褐色に近い色調となっているが、高台付近に本来の色調が現れているように、外面には青磁釉が掛けられている。高台脇までは施釉されているが高台部は無釉で、高台外側面は不規則に釉が垂れている。内面は、口縁部まで青磁釉が掛けられているが、胴部以下は白色の透明釉が掛けられている。
 こうした、内外面に釉を掛分けた高台無釉碗は、日本各地の消費遺跡での出土例も目立つように、1640〜50年代頃を中心にさまざまな窯で多量に生産されている。外面に掛けられる釉としては鉄釉なども多いが、まれに瑠璃釉を用いたものも認められる。
 幸平遺跡に最も近接する窯跡の出土例としては、遺跡の背後の丘陵に位置する谷窯跡にあり、この出土品は焼成窯までは不明なものの、周辺に位置する内山の窯場の製品であることは間違いないだろう。

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