「窯跡出土の初期色絵素地大皿について」
−山辺田窯跡・丸尾窯跡を中心として−
村 上 伸 之 その1
■ STARTING
POINT ■ 現在では、すでに古九谷様式の色絵といえば、有田を中心とした肥前の最初期の色絵であることがおおむね認知されている。しかし当時はまだ「有田」か「九谷」かという生産地論争が、華やかなりし頃であった。当時はすでに有田における窯跡出土資料等の増加により、研究の方向性としては、出土資料と伝世品の比較によって、一つ一つ有田で生産された古九谷様式の種類を割り出していくことに主眼が置かれた。その頃、最も注目されていたのが山辺田窯跡の製品で、すでに1960年代には山下朔郎氏によりその重要性が指摘されたが、その後1972〜75年の発掘調査資料を元に、大橋康二氏(佐賀県教育委員会/当時九州陶磁文化館)により詳細な研究が行われた。
しかし、古九谷様式の製品に限ったことではなく、通常、出土品と伝世品では特徴一致するものは意外に少ない。特に古九谷様式の製品が生産された時代は素地の個体差も大きく、大皿などは意識的に一点ずつ異なった絵付けが施されている。ということは、たまたま伝世品と類似した特徴を有する製品が出土しない限り、生産窯の特定は困難だということになる。これでは個々の窯場全体の調査が不可欠だし、例え行ったとしても、生産された全ての種類が出土する可能性は皆無に近いため、ほぼ永久的に全ての穴は埋まらない。
こうした状況を打破するには、個々の製品どうしの類似性の比較ではなく、個々の製品に含まれる技術的要素をさらに分解し、その中から窯場に共通する固有の特徴を抽出し、さらに個体差によって生じる幅を明確にする方法が考えられる。つまり伝世品と個々の出土品を比較するのではなく、伝世品と窯場に内包される全体的な技術的要素を比較しようということである。たとえば、ある伝世品が、特定の窯場固有の要素を内包し、しかもその他の要素もその窯場の技術的な許容範囲に収まっていれば、その窯場の生産品である可能性は高いといえるだろう。それを実現する一助とするため、出土資料を再度調べ直し、まとめたのが本稿である。
なお、現在までの調査・研究の進展により、数量的な面や歴史的な位置付けなどに関しては、すでに自ら若干の調整を図り見解を発表している部分もあるが、基本的な捉え方としては今でも認識は変わっていない。
それにしても、製品を収納しているコンテナの移動など、まとめる過程ではかなり重労働を要する内容であった。もう一度試みることがあるかと言われれば……??正直なところ、ちょっと次の言葉が出ない。比較的長い文章なので、何度かに分けてご紹介する。
1. はじめに 1. 山辺田窯と丸尾窯はともに有田町の北西寄りに位置している。山辺田窯は黒牟田山、丸尾窯はおそらく隣接する外尾山の窯場であったと推定され、直線距離ではわずか1kmほどしか離れていない。この両窯は大皿類を多量に生産した窯場として知られており、その中には色絵素地と推定される製品も多く含まれている。 2. 色絵素地大皿の出土している窯跡 3. 4. 5. 6. 山辺田窯と丸尾窯の詳細を述べる前に、有田で色絵素地の可能性がある大皿の出土している窯を簡単に紹介しておくことにする。 (A)山辺田窯跡 (B)多々良の元窯跡 (C)丸尾窯跡 (D)長吉谷窯跡 (E)猿川窯跡 (F)山小屋窯跡
有田町教育委員会『佐賀県有田町山辺田古窯址群の調査』
1986
2.
有田町教育委員会『窯の谷窯・多々良の元窯・丸尾窯・樋口窯』
1989
近年有田では急速に発掘調査が進み、各時期の資料がかなり蓄積されつつある。それに伴い消費遺跡の出土品や伝世品などの生産地の判別については、一部窯の割り出しまで可能になりつつある。しかしこうしたことに対応するためには、出土した製品がその窯で生産されたもののごく−部であることを認識し、出土遺物個々の分析に加え、その窯特有な特徴を把握する必要があるだろう。こうした研究の−助とするため、今も解決を見ない大きな課題である初期の色絵大皿類について筆を進めることにする。今回特に山辺田窯と丸尾窯を取り上げた理由は、これまでの調査から初期の色絵大皿類に関してはこの両窯でかなり生産されていたと推定されることや、部分的にはよく利用されつつも全体の細かい資料提示がほとんどなされていない点、今後近い将来の内に新資料が加わる可能佐がほとんどないなどの理由による。また一応大皿に限定した理由は、他の種類は内山と呼ばれる有田の東側の地域でかなり生産されていたことが明らかになっており、今後新たに資料が蓄積される可能性が高いからである。
今回使用した資料は山辺田窯が昭和47〜50年の発掘調査(註1)及び昭和62年と平成3年の災害復旧に伴う立ち会い調査、採集品の中で発掘調査出土遺物から見て山辺田窯の製品であることが確実なもの、丸尾窯が昭和63年の発掘調査(註2)で出土したものである。なお山辺田窯の立ち会い調査は3・4号窯の物原部分であり、厳密にどちらの窯に属すか不明なものも多いが、発掘調査で両窯の素地の概要が明らかになっており、今回は一応染付の入るものを3号窯、入らないものを4号窯に含めた。
註2に同じ
九州陶磁文化館『窯ノ辻・ダンバギリ・長吉谷』
1984
有田町史編纂委員会『有田町史』古窯編
1988
有田町教育委員会『山小屋遺跡』
1987
有田町の北西部黒牟田地区に位置する。有田の窯業発祥に関係する窯場の一つであり、こうした窯場では寛永14年(1637)の窯場の整理・統合の際に廃止されなかった数少ない例である。9基以上の窯跡があり、他の窯場に比べ大皿の割合が高い。染付は粗質なものが多いが、中にいくらか極めて精緻なものが見られ、異なる技街を持った陶工集団が混在していたと思われる。1〜4号窯・7号窯などで色絵素地が出土しており、特に3号窯は素地の割合がかなり高い。
山辺田窯の南に対峠した丘陵に位置している。1630年代末から近代に至る窯場で、3基以上の窯跡で構成されている。この中で下限が1650年代と推定されるB窯から、わずかながらやや大きめの色絵素地の可能他のある白磁が出土している(註3)。
多々良の元窯と同一丘陵の南斜面に位置している。開発によって窯跡は破壊され、現在は物原のごく一部が残っているだけである。山辺田窯と並んで色絵素地と推定される大皿の割合が高い窯であるが、小皿や中皿も多い。染付にはいわゆる藍九谷様式と呼ばれるものがかなり含まれており、山辺田窯とはやや性格を異にする。
有田町の中央近くに位置している。窯跡は発見されなかったが、物原から大量な製品が出土している。良質な製品を多く生産した窯で、その中には藍九谷様式の製品も多く含まれている。染付の入る素地と入らない素地の両方がいくらか出土しており、輪形の扁壷なども見られる。1650年代後半から1670年代〜1680年代頃までの窯と推定されている(註4)。
長吉谷窯跡の北東に位置している。寛永14年(1637)以前に開窯していたと推定され、内山では最も早い窯の一つである。色絵素地大皿もいくらか出土しており、染付の入るものと入らないものの両方が出土している(註5)。
有田町の東部に位置している。物原の調査が行われており、1630年代末〜1650年代前半頃に主として小型の優品を生産した窯であることが明らかになっている。この中には、いわゆる吸坂手と呼ばれているものも多く含まれている。素地の可能佐があるやや大きめの白磁皿がわずかに出土しているが(註6)、この窯の性格から見てそれほど多く生産していたとは思われない。
■ COMMENT ■ ● 丸尾窯跡についてはその後も資料は増加していないが、山辺田窯跡については近接して工房跡と推定される山辺田遺跡が発見され、色絵や色絵素地が多く出土している。正確には計算していないが、色絵素地は数百点、色絵は60〜70点程度は増加しているものと思われる。 ● 多々良の元窯跡に関しては、その後の立会調査で白磁の素地に関しては比較的多く生産していたことが判明した。ただし、今のところ染付を伴うものは発見されていない。 ● 長吉谷窯跡に関しては、現在では開窯時期は1650年代前半の可能性が高いと考えている。廃窯時期についても、1660〜70年代の可能性が高い。
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