窯業史概説


はじめに

 ここでは、有田を中心とした肥前の窯業の概要を記してみることにする。しかし、本来はこれから述べる事柄や言葉の一つひとつに複雑な歴史があり、とてもここですべてを語ることはできない。したがって、ここではとりあえずその触りの部分だけを述べ、おおまかな流れを把握していただきたい。なお、詳しくはこれからおいおい本編中で取り上げていくつもりである。

 

[ 註 ]

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1.「職人尽絵図大皿」
    に描かれた窯焚き風景
     
(有田陶磁美術館蔵)

 

2.初期の窯場の生産形態
 有田の初期の窯場では、当初陶器生産からはじまった窯場であっても、例外なくすべて後に陶器とともに磁器が併焼されている。

 

 

 

 

 

3.整理・統合以後の窯場
 この時成立した13の窯場については、これまでのところ明確になっていない。しかし、その後承応二年(1653)の『萬御小物成方算用帳』には、外尾山、黒仁田山、岩屋川内山、稗古場山、上白川山、中白川山、下白川山、大樽山、中樽山、小樽山、歳木山、板ノ川内山、日外山、南川原山の14ヶ所の窯場が記載されており、少なくとも南川原山に関しては、整理・統合の際には窯場が廃止された地区である。

 

 

 

 

 

4.色絵柘榴文変形小皿
      [古九谷様式]
     (有田陶磁美術館蔵)

 

 

 

 

5.初期伊万里の高台
     [小溝上窯跡出土]
    (有田町教育委員会蔵)

6.古九谷様式の高台
     [山辺田窯跡出土]
    (有田町教育委員会蔵)

 

7.色絵草花文変形鉢
     [柿右衛門様式]
    (有田陶磁美術館蔵)

8.初期輸出タイプの碗
     [赤絵町遺跡]
    (有田町教育委員会蔵)

 

 

 

9.色絵花籠文皿
   [金襴手古伊万里様式]
   (有田陶磁美術館蔵)

 

 

 

10.染付団竜文深皿
     
[18世紀の製品]
   (有田陶磁美術館蔵)

 

11.染錦窓絵牡丹文皿
     [明治期の製品]
   (有田陶磁美術館蔵)

1.肥前における窯業の成立

 かつて佐賀県および長崎県の大半は、肥前と称されていた。この地域には、中世までは、広い流通圏を持つような目立った窯業地は存在していなかった。
 しかし、1590年前後に海外で完成された窯業技術が導入され、突如として優秀な技術力を持つ窯業地が成立した。この技術の導入地については、これまでその製品の類似性から北朝鮮の可能性が指摘されてきたが、まだ明らかにはなっていない。
 ところで、この技術導入によって肥前で最初に窯場が成立したのが、岸岳山麓(佐賀県北波多村、相知町)付近である。ただし、この頃にはまだ生産規模としては小さかったものと推定される。しかし、その後豊臣秀吉が朝鮮半島に出兵した慶長の役(1596〜98)などによって再び多くの陶工が連れ帰られ、一気に生産規模が拡大、肥前の各地に窯業地が成立した。

 

2.肥前の窯業の特徴

 この肥前の窯業は、すでに海外で完成された技術が導入されているため、製品の生産技術に関しては従来の国内の先進的な窯業地と比べても遜色はなかった。しかも、当初から当時国内には存在しなかった大規模な登り窯(註1)を使用して焼成したため、生産効率の高さでは問題にならなかった。こうしたことにより、新興の産地でありながら急速に国内市場でのシェアを拡大し、10年あまりの間に国内でも有数の生産地へと発展したのだ。

 

3.磁器の創始

 しかも、1610年代中頃には、この肥前の窯業の地位を不動のものとした大きな技術革新があった。磁器の創始だ。それまでの日本では土器や陶器しか生産できず、磁器はもっぱら中国などから輸入され珍重されていた。それが国内ではじめて生産できるようになったのだ。
 この付加価値の高い磁器が、国内ではじめて生産されたのが有田であった。以来有田では、しだいに陶器から磁器へと生産のウエイトが移っていった(註2)。

 

4.磁器専業体制の確立

 しかし、実際には磁器が生産できるようになったからといって、生産地としての発展が約束されたわけではない。安定した原料確保、生産秩序の確立、流通網の整備…。そのほかにもさまざまな条件が要求される。つまり、こうした生産体制の確立は、磁器生産地として発展する上で、磁器の創始と同じくらい大事なものなのだ。
 これが確立したのは、寛永十四年(1637)に佐賀藩によって断行された窯場の整理・統合である。それまで自然発生的に町の西側に成立していた窯業地をすべて廃止し、826人の陶工を町から追放し、窯場を13個所に統合して、町の東側の山間部に集めたのだ(註3)。この時残された陶工は、主に当初から有田に住んで製陶に従事していた朝鮮半島の出身者であった。つまり追放されたのは、後で技術を習い覚えた日本人だったのである。
 この窯場の整理・統合は、それまでたんに陶工個々の生計の手段であった窯業を藩の産業として位置付ける礎となった。ここでは詳述しないが、以後有田の窯業は藩主導の管理・保護体制下に置かれ、高級磁器の専業地としての道を歩むことになった。つまり、有田の東側の地区は、藩の産業施策によって造られた今の工業団地のような場所なのである。

 

5.色絵のはじまり

 こうして新しいスタートをきった有田であったが、1640年代になると再び画期となる技術が確立した。色絵のはじまりである。
 それまでの磁器の文様は、すべて器の表面を覆う釉薬の下に描くものであった。こうした釉薬の下に描く絵を下絵と呼ぶが、その色調は、コバルトを主成分とし藍色に発色する呉須が中心で、まれに銅で赤色を出す辰砂(釉裏紅)や茶色の鉄絵がある程度であった。また、鉄分によって発色する青磁や鉄釉、銅による辰砂(紅釉)、呉須による瑠璃釉など、釉そのものに色を付ける方法はあったが、いずれにしても、やや華やかさという点には欠けていた。
 ところが釉薬の上に彩画する色絵が開発されたことにより、一気に多様な色彩を駆使することができるようになったのだ。早い段階から赤や青、緑、黄色、紫、その他さまざまな絵具が用いられている。また、1650年代中頃になると金や銀を焼き付ける方法も確立した。こうした最初期の肥前の色絵磁器は、通常古九谷様式(註4)と称されている。これは、こうした製品が以前は石川県の九谷で生産されたと考えられていたからである。

 

6.輸出のはじまりと新技術の普及

 色絵の技術の獲得の意義は、実はたんに上絵の技術が確立されたということにはとどまらない。それは、この技術には、同時にまったく新しい素地の生産技術も含まれていたからである。
 従来生産されていたような、厚手で皿の高台径が小さいようなタイプの製品は、通常初期伊万里(註5)と称されている。しかし、この色絵素地生産技術の導入とともに、中国の景徳鎮製品のような、良質で、薄く、高台径の大きなものが生産できるようになった(註6)。この技術は最初一部の窯場だけで行われていたが、1650年代の10年ほどの間に急速に、ほかの窯場にも普及していった。
 これを促した最大の要因は、中国が明末・清初の混乱で磁器の生産・輸出体制が崩壊状態になってしまったことである。つまり中国の代わりに世界中に磁器需要に答えられる生産地が必要になったのだ。これは肥前にとっても、大きなビジネスチャンスであった。ただし、それに伴う生産地内での熾烈な競争も待っていた。従来は中国製品に握られていた国内の高級磁器市場に参入するためには、中国磁器に負けない品質が求められる。また、これまで接したこともない海外の異なる嗜好に答えるためには柔軟な対応が必要であった。しかし、この1650年代の激しい切磋琢磨によって急速に産地としての技術力が向上し、1659年にはオランダ東インド会社を通じて、海外への大量輸出がはじまった。この後、半世紀あまりに渡って、肥前磁器が世界の標準となったのである。

 

7.個性化の時代

 一般的に陶磁史の本などでは、古九谷様式から柿右衛門様式へと移行したことが記されている。しかし、実際には、柿右衛門様式の製品が生産されたのは有田でも一部の窯場であり、しかも有田以外ではこれまでには例が見当たらない。
 何を柿右衛門様式(註7)と呼ぶのかという問題は、機会を改めて触れてみたいと思うが、一応広い意味では1660 年代にはすでにその初期的なスタイルが萌芽している。しかし、厳密な意味で確立するのは1670年代のことで、しかも有田の下南川原山を中心に生産されている。ただし、壺などの大形製品に関しては南川原ではほとんど生産されていないため、有田の内山で生産されていた可能性が高いものと推定される。
 では、そのほかの一般的な窯場ではどういう製品が生産されたのだろうか?実は、1660年代から1670年代にかけては、ほとんど製品のスタイルは変化していない。厳密にいえば変化はあったが、窯差などを考えると、現状では時期的な一つのスタイルを定義できるところまでは至っていない。つまり、輸出が本格化した頃の生産品がおおむねそのまま継承されているのだ(註8)。しかも、顧客となる消費者の範囲がより広がったため、ターゲットにする消費者に合わせて、地域や窯場による差も多様化した。

 

8.スタイル再統一の時代

 製品の様式は、通常変遷という関係で捉えられる場合が多い。しかし現実的には、前にも示したように、同一時期であっても地域や窯場、製品のレベルなど様々な要因によって異なった様式が併存する。これは、現在でも最新技術の電化製品が発売された後も、従来の技術の製品も相応の役割を持って併存することと共通している。つまり、消費者の需要があれば、技術の新旧に関わらず、多様な技術が混在することに矛盾はないのだ。
 ところが、時に画期的なものでありながら、どのレベルの技術でもそれなりに対応が可能な汎用性の高い技術が登場する。肥前磁器の場合は、これが金襴手に代表されるいわゆる古伊万里様式(註9)である。もちろん実際に金絵具を多用するような製品は、コストの点で高級品生産以外には不可能である。しかし、その基本的なスタイルそのものは、それまでの技術で十分模倣することが可能なのだ。こうした汎用性の高さもあって、古伊万里様式は、初期伊万里様式に続く久方ぶりの肥前全体を網羅した様式となった。

 

9.技術改革意識の変容

 1610年代に確立し、わずか半世紀あまりの間に世界の頂点へと上り詰めた肥前磁器は、この間に次々と新しいスタイルを模索した。これが今日様式という名で知られているものであるが、なぜか18世紀以降に確立した様式はない。
 新様式の確立とは、極論すれば、新しい技術・技法の導入あるいは創出による、それまでとは異なったスタイルの製品の誕生を意味している。こうした意味では、実際には18世紀以降にも新しい様式はあり、これは今日に至るまで延々と繰り返されている。
 では、それがなぜ新様式の確立として認識されないのだろうか?実はその最も大きな要因は、柿右衛門様式にはじまり、金襴手古伊万里様式で確立する生産意識の変容にあると考えてまちがい。つまり、当初新興の産地として新しいスタイルを創出することによって成長を遂げてきた産地が、成熟期を迎え、それをいかに効率的に生産できるかという方向に技術変革の基本的な方向性を転換したのである。つまり大概的には製品の価値の意識が、その新しいスタイルによる付加価値の部分から単なる生産コストの違いに変化したのである。よって17世紀後葉以降には図案などは規格化し、印判や見込み蛇の目釉剥ぎ、蛇の目凹形高台をはじめ、逆に効率面での生産技術に関しては、17世紀とは比較にならないくらいに発達した。しかし一方では、たとえば中国製品などを模倣する場合にも、17世紀にはそれを写しっぱなしにするのではなく、消費者合わせて咀嚼して独自の製品として再編していたのが、いかに忠実に模倣できるのかといった方向へと変わってしまったのである。このように、技巧の部分が重視されることにより、新しい様式と認識されるような独自なスタイルは誕生しにくくなった(註10)。この最たるものが明治時代に生産された高級磁器である(註11)。現在ではとてもまねのできないような高度な技術レベルで生産されているが、その価値はあくまでも技巧の粋であり、スタイルそのものは元禄時代のそれから脱していない。




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