様式あれこれ (初期伊万里編)

 


 

 

 初期伊万里という言葉をご存知だろうか…?ちょっと肥前陶磁の本でも見たことのある方なら、一度くらいは目にしたことがあるだろう。

 では、初期伊万里ってなんだろうか?

 “そんなこと常識”と感じられる方の答えは、たぶん、「初期に生産された伊万里」といった具合ではなかろうか?

 まあ、そのとおりだといってしまえば、それまでだが…。

初期伊万里 染付菊花文皿〔内面〕
同〔外面〕(小溝上窯跡/有田町)

 



 

 では、もう少し突っ込んで質問してみたい。

 

 ● 初期とはいつ頃までなのか…?

 ● その時期で切る必然性は…?

 ● 時期が下がることが判明した製品は、その時点で初期伊万里ではなくなるのか…?

 ● また、その場合、肥前製品の様式名では何に含まれるようになるのか…?

 

 これに答えられる人がいれば、なかなかの通である。しかし、たぶん明確な回答を準備できる人はいないはずだ。

 それもそのはず、少なくとも現在の陶磁史用語の枠組みでは、すべてを矛盾なく説明することは不可能だからである。


 初期伊万里という言葉が誕生したのは、昭和30年代である。当時は、「初期伊万里」、「古九谷」、「柿右衛門」、「古伊万里」、「鍋島」などのスタイル差が、まだ、生産地に起因するものだと考えられていた。いうなれば、生産地様式である。

 しかしその後、これらは生産地差ではなく、生産時期差であることが明らかになってきた。「鍋島」は別としても、「初期伊万里」、「古九谷」、「柿右衛門」、「古伊万里」の順に移行する、肥前の時代様式だという考え方が一般的になっているのだ。

 その際、生産地様式との違いを表すために考えられたのが、後ろに「様式」という言葉を付す方法である。たとえば、「古九谷様式」や「柿右衛門様式」などだ。もっとも、様式という語を加えると言葉としての座りが悪いこともあり、書籍のタイトルなどでは省略されている場合が多い。しかし現在では、意味としては、あくまでも時代様式である。

 ところが、こうして単純に様式という語を付加する方法で生産地様式から時代様式への変更を図ったため、根本的な矛盾が生じてしまうことになった。

 本来、初期伊万里は、窯跡の資料採集などの盛行により、有田の生産地様式であった古伊万里から分割されたものである。したがって、本来初期伊万里から古伊万里へと移行する一連の流れが組み立てられていた。ここに単純に古九谷や柿右衛門を挟んだのだ。

 

 ここで、どういう問題が起こるかお分かりだろうか…?

 


 

 ちょっと頭をひねっていただければ分かるが、この様式の変遷が表しているのは、つまり時々の最先端技術の変化である。ということは、技術史的な発展の概念としては、たしかに定義されたような変遷は存在するのだが、実際の物をこの概念ですべてを括ってしまうことは不可能なのである。

 たとえば、古九谷様式が最先端の技術であった時期には、その技術を有する窯場では、当然ながら古九谷様式の製品が生産されている。しかし、その技術を持たない窯場では、相変わらず旧来の技術で生産が継続されているのだ。この場合、こうした旧来の技術で生産された製品は、スタイル的には初期伊万里である。しかし、古九谷に先行する「初期の伊万里」という概念には当てはまらないのだ。

 いったいこうした製品は何と呼べばいいのだろうか?


 もっとも、初期伊万里を「初期の伊万里」という概念で捉えようとすれば、それは技術の反映としての製品スタイルではなく、時期的要素が基準となるため、本来ほかの様式と同列に扱うべきではなかろう。つまり、今日いうところの様式ではないのだ。ところが、スタイルを機軸にした様式として捉えようとすると、述べたように古九谷様式や柿右衛門様式と並行する初期伊万里があってもおかしくないことになる。これは、逆に古伊万里の位置付けが変わってきたことにも関係するのだが。これでは、実際の製品は、現在の時代様式という概念で包括できないのはお分かりであろう。

 

 ここではかなり単純化して記したが、本当は、この様式の問題はもっと複雑である。次回からは、この様式の複雑さをもっと実感してもらうことにしよう。

 




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