これが基本L
一般の教えにおいては、人間が自分の力をふりしぼって「さとりの道」をたどることを教えます。
たとえ神や仏といっても、それは自分の力の足りないところを補い助けるためのものと考えられているのでありますが、浄土真宗でいう救いは,限りある人間の力にたよらず、わたくしたちの救いのすべてが、まったく阿弥陀如来の本願力の恵みによるものであると仰ぐのであります。
阿弥陀如来の本願は、他力回向の本願・絶対他力の本願であります。
このように、救いのすべてが、他力のはたらきによるということは、浄土真宗だけが説くところであって、すべての人が、のこらず救われるという根本の立場がここにあるのです。
この如来の本願力は、どのようにしてわたくしにはたらきかけるのかといえば、一つには「南無阿弥陀仏」の名号として、わたくしの心にとどき、また光明となって、わたくしを照育してくださるのであります。
それはちょうど、母親が子を育てるのに、母乳と慈愛の手をもってはたらきかけるようなものであります。
母の乳には、子の育つ栄養のすべてが含まれているように、名号にはわたくしが救われるすべての要素がそなわっているのであります。
およそ人間と名のつくものは、どんな愚かなものであろうと、そのいわれを聞くままが信となり、となえるままが行となるよう成就されているのが「南無阿弥陀仏」の名号にほかなりません。
また如来は、「摂取して捨てぬ」と光明をもって、わたくしたちをおまもりくださるのであります。
光明とは、仏の智慧の姿であり、慈悲のはたらきであります。
生活に心を奪われ、煩悩に心の眼をさえぎられて如来のすがたを見ることのできないわたくしであっても、大悲の光明は、つねに見まもり、照らしつづけていてくださるのです。
わたくしの内にはたらく名号と、外からまもる摂取の光明によって、わたくしはこの煩悩の身のまま救われてゆくのであり、この名号と光明を内容とする本願力による救いこそ,わたくしたちの人生に、ほろびない生命をもたらし、限りない希望となにものにもくじけぬ勇気を生みだしてゆく原動力となるのであります。