第1012回 二河白道のたとえ 〜教行信証現代語版〜

 
平成24年 6月14日〜

教行信証の現代語訳を 読みあげソフトで聞きながら、字で追い、読ませて
いただいていますが、信巻の中の 二河白道の例えは、このように訳されていました。
 (本願寺出版社発行 浄土真宗聖典
 顕浄土真実教行証文類現代語版)


行者よ、 よく知るがよい。
もしさとりについてただ学ぶだけなら、 凡夫の法から聖者の法、さらに仏のさとりに至るまで、
どの教えでも学ぶことができる。
しかし、 実際に行を修めようと思うなら、 必ず自分にふさわしい法によるべきである。
なぜなら、 少しの力で多くの利益を得るからである。


 また、 往生を願うすべての人々に告げる。念仏を行じる人のために、 今重ねて一つの
譬えを説き、 信心を護り、 考えの異なる人々の避難を防ごう。

その譬えは次のようである。

 ここに一人の人がいて、 百千里の遠い道のりを西に向かって行こうとしている。

その途中に、 突然二つの河が現れる。 一つは火の河で南にあり、 もう一つは水の河で北にある。
その二つの河はそれぞれ幅が百歩で、どちらも深くて底がなく、 果てしなく南北に続いている。
その水の河と火の河の間に一すじの白い道がある。
その幅はわずか
 四、 五寸ほどである。 この道の東の岸から西の岸までの長さも、また百歩である。
水の河は道に激しく波を打ち寄せ、 火の河は炎をあげて道を焼く。 水と火とがかわるがわる道に
襲いかかり、 少しも止むことがない。

この人が果てしない広野にさしかかった時、 他にはまったく人影はなかった。
そこに盗賊や恐ろしい獣がたくさん現れ、 この人がただ一人でいるのを見て、
われ先にと襲ってきて殺そうとした。


そこで、 この人は死をおそれて、 すぐに走って西に向かったのであるが、
突然現れたこの大河を見て次のように思った。

 この河は南北に果てしなく、 まん中に一すじの白い道が見えるが、それはきわめて狭い。
東西両岸の間は近いけれども、 どうして
 渡ることができよう。
わたしは今日死んでしまうに違いない。 東に引き返そうとすれば、 盗賊や恐ろしい獣が
次第にせまってくる。

南や北へ逃げ去ろうとすれば、 恐ろしい獣や毒虫が先を争って
 わたしに向かってくる。
西に向かって道をたどって行こうとすれば、 また恐らくこの水と火の河に落ちるであろう

と。 こう思って、 とても言葉にいい表すことができないほど、 恐れおののいた。

そこで、 次のように考えた。 わたしは今、 引き返しても死ぬ、 とどまっても死ぬ、 進んでも死ぬ。
どうしても死を免れないのなら、 むしろこの道をたどって前に進もう。 すでにこの道があるのだから、
必ず渡れるに違いない、 と。


  こう考えた時、 にわかに東の岸に、  そなたは、 ためらうことなく、ただこの道をたどって行け。
決して死ぬことはないであろう。

もし、 そのままそこにいるなら必ず死ぬであろう と人の勧める声が聞えた。

また、 西の岸に人がいて、 そなたは一心にためらうことなくまっすぐに来るがよい。
わたしがそなたを護ろう。 水の河や火の河に落ちるのではないかと恐れるな。 と喚ぶ声がする。

この人は、 もはや、 こちらの岸から 行け と勧められ、 向こうの岸から 来るがよい と
喚ばれるのを聞いた以上、 その通りに受けとめ、 少しも疑ったり恐れたり、 またしりごみ
したりもしないで、ためらうことなく、 道をたどってまっすぐ西へ進んだ。

そして少し行った時、 東の岸から、 盗賊などが、 おい、 戻ってこい。 その道は危険だ。
とても向こうの岸までは行けない。間違いなく死んでしまうだろう。 俺たちは何もお前を殺そうと

しているわけではない と呼ぶ。 しかしこの人は、 その呼び声を聞いても ふり返らず、
わき目もふらずにその道を信じて進み、 間もなく西の岸にたどり着いて、 永久にさまざまな
わざわいを離れ、 善き友と会って、 喜びも楽しみも尽きることがなかった。
以上は譬えである。


  次にこの譬えの意味を法義に合せて示そう。東の岸 というのは、 迷いの娑婆世界を
たとえたのである。
西の岸 というのは、 極楽世界をたとえたのである。 盗賊や恐ろしい獣が
 親しげに近づく
というのは、 衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大を
 たとえたのである。

人影一つない広野 というのは、 いつも悪い友にしたがうばかりで、 まことの善知識に遇わない
ことをたとえたのである。

水と火の二河 というのは、 衆生の貪りや執着の心を水にたとえ、怒りや
 憎しみの心を
火にたとえたのである。
間にある四、 五寸ほどの白い道 というのは、 衆生の貪りや怒りの心の中に、清らかな信心が
おこることをたとえたのである。
貪りや怒りの心は盛んで
 あるから水や火にたとえ、 信心のありさまはかすかであるから
四、 五寸ほどの白い道にたとえたのである。

また、 波が常に道に打ち寄せる というのは、 貪りの心が常におこって、 信心を汚そうと
することをたとえ、 また、 炎が常に道を焼く とは、 怒りの心が信心という功徳の宝を
焼こうとすることをたとえたのである。


道の上をまっすぐに西へ向かう というのは、 自力の行をすべてふり捨てて、 ただちに浄土へ
向かうことをたとえたのである。


東の岸に人の勧める声が聞え、 道をたどってまっすぐ西へ進む というのは、 釈尊はすでに
入滅されて、 後の世の人は釈尊のお姿を見たてまつることが
 できないけれども、 残された
教えを聞くことができるのをたとえたのである。
すなわち、 これを声にたとえたのである。

少し行くと盗賊などが呼ぶ というのは、 本願他力の教えと異なる道を
 歩む人や、 間違った
考えの人々が、 念仏の行者は勝手な考えで
 お互いに惑わしあい、 また自分自身で罪をつくって、
さとりの道から
 はずれ、 その利益を失うであろう とみだりに説くことをたとえたのである。

西の岸に人がいて喚ぶ というのは、 阿弥陀仏の本願の心をたとえたのである。

間もなく西の岸にたどり着き、 善き友と会って喜ぶ というのは、衆生は 長い間迷いの世界に
沈んで、 はかり知れない遠い昔から生れ変り死に
 変りして迷い続け、 自分の業に縛られて
これを脱れる道がない。

そこで、 釈尊が西方浄土へ往生せよとお勧めになるのを受け、 また阿弥陀仏が大いなる
慈悲の心をもって浄土へ来れと招き喚ばれるのによって、今釈尊と阿弥陀仏のお心に信順し、
貪りや怒りの水と火の河を気にもかけず、ただひとすじに念仏して阿弥陀仏の本願のはたらきに
身をまかせ、この世の命を終えて浄土に往生し、 仏とお会いしてよろこびがきわまりない。

このことをたとえたのである。

  また、 すべての行者よ、 何をしていてもいついかなる時でも、この他力回向の信心を得て
間違いなく往生できるという思いがあるから、 これを廻向発願心というのである。・・・・・


 とあります。

妙念寺電話サービス 次回は、6月21日に新しい内容に変わります。


         


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