第1035回 仏教の基本 祈らない宗教〜

 平成24年 11月22日〜

こんな質問と 答えを見ました。

「子どもの冥福を祈るのがどうしていけないのでしょうか」との質問とその答えです。

問い 成人ま近い子どもが不慮の事故で死んでしまい、涙に暮れています。
新しく求めた仏壇に元気な時の写真を飾って、朝夕、冥福を祈っています

ところが、お参りにこられたお寺さんが、真宗では死者の冥福を
祈るのではないといわれました。

親が子どもの冥福を祈るのが なぜいけないのでしょうか。


答え 愛し子の死後が安らかであるように、朝夕、仏前に念じて

いらっしゃるのは、親なればこそでしょう。
それは、人情であり、世間一般も同様に行う習俗ではないか・・・

というご意見のようです。

しかし、浄土真宗では「祈る」ということは徹底的に排除するのです。
それは、真宗だけでなく、仏教のものの考え方の基本にかかわることなのです。

 祈るというのは、たとえば「安全を祈る」「合格を祈願する」

「病気が治るよう祈る」というような使い方をします。
すなわち、自分の願望や欲望を実現するために、神仏の力をかりようとする

考え方です。

 また、そこで考えられている神仏は、祈らなければ私を不幸に

おとしいれ、祈れば私の願いを叶えてくださる方として設定されています。
人間の態度によってきわめて えこひいきの強い方とされるのです。


 この考え方では、私の幸・不幸が、神仏の手にゆだねられている
ことになります。
いいかえますと、私の人生の責任は神仏にあるのですから、

私は責任者ではない・・・という人生観につながってゆくのです。

 すなわち、「祈る」というのは自分の欲望実現の手段であり、
それは、人生無責任の思想と深く結びついている考えです。


 仏教は、欲望や願望を実現させる教えではありません。
むしろ、人生の苦悩はこの欲望が元凶であるとするのです。
そういうものをはっきり見定め苦悩を克服してゆこうとするのです。


 また、死者のために祈るというとき、私どもは無意識のうちに
傲慢な心になっています。

それは死者を頭から不幸な世界、地獄や餓鬼道で苦しんでいるものと

きめつけているのです。

同時に、私が祈ることによって、その人が地獄から脱出できると

うぬぼれるのです。
そんな力が私のどこにあるのでしょう。おぼれているものが、
おぼれている人を助けることはできません。


 もし本当におぼれている人を救いたいと思うなら、まず私が
おぼれない身になるしかありません。

浄土真宗で仏さまを拝んだり、念仏するのは、祈りではありません。
仏の教えを聞いて、おぼれない身になるためのつとめなのです。

   霊山勝海著 (本願寺出版社)「やさしい真宗講座」より



         


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