1050 手が合わせられる ~気づけば大きなはたらきかけ~

 平成25年 3月 7日~

子どもの頃から 他人に頼らず 自分の力で生きていきなさい。
そのためには、たゆまぬ努力が必要である。
真面目に頑張らなければ駄目だと、教え込まれて成長してきました。

学校の勉強、自分の部屋の掃除や片付け、友人との関係もすべて、
あなたがちゃんとしなければ、甘えず、ひと様に頼ってはいけません、
迷惑かけてはいけません、と、しつけられ、教え込まれてきました。

そこで、大人になった今、自分は誰の世話にもならず、誰にも

迷惑をかけず、ちゃんと生きていると、思い込んでしまっています。

そこで、私が生きているのは、多くの人びと 多くの生き物、植物も
動物も自然も数々の恩恵に絶えず支えられているという
その事実に気づかない、わがままな生活をしているのではないでしょうか。

お世話になったら、お金を払えばそれで十分と割り切って生きています。

ところで、仏教では どの宗派も手を合わす共通点があります。
お釈迦さまの国 インドの人びとが 人と出会ったときの挨拶や

尊敬する人の前 仏さまの前で 手を合わす風習があることから
どこの国でも合掌するようになったのでしょうが、
手を合わすということは 「拾う」ということだという

お話を聞きました。

「扌」(手へん)に 「合う」 で 「拾う」という字になります。
拾うということは、すでにあるものを 発見して 拾い上げ
受けとることだという意味だというのです。

我々は 身の周りに、いつもあるものは、みんな当たり前になって
有難さを感じることも出来ずにいるものです。
ものばかりではなく、親切な思いやりや、そっと手助けして
貰っていることに、気づきもせずに、見過ごしているものです。

そして、無い物ねだりをし、すでに有るものに不平不満を
もって生活しています。
拾うということは、気づかなかったそうしたものに、気づき
拾い上げること。

自分の努力で 獲得するのではなく、すでにあるものを
いただくこと。

手を合わせる、合掌することも 自分で手を合わすのではなく、
手が合わせられる、自分の力で気づくのではなく、気づかされる 
それが仏さまのはたらき、それに気づくのが、仏教の教えであり、
お念仏の教えであるとおっしゃるのです。


多くの恵みに 気づかされた時、はじめて有難く喜べるものですが、

気づかなければ 何の感動のない平凡な人生となることでしょう。

南無阿弥陀仏のお念仏は、お前一人を救わすにはおかないと
ご苦労いただく方々が 多くの働きがあることに気づかせていただき、
そのことを喜ばせて頂く言葉です。

お前が一番かわいい、お前の為に あるとあらゆる手助けをする、

お前に本当の喜びを与えたい。
いつでもどこでも、ちゃんと見守り、迷わないように、導き

悲しまなくてもいい、苦しまなくてもいい、不安がらずにいい、
必ず救うぞと、呼び続けていただいている言葉です。

お祖父ちゃんや、お祖母ちゃん、親切なおじさん 叔母さん、
父や母の大きな思いに共通する強い強い、大きな働きかけ

それが、すでに与えられていることに気づかせていただく、
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と、お念仏まで出させていただく
はたらきを、そのことを気づかせていただき、しっかりと

喜ばさせていただきたいものです。

妙念寺電話サービス次回は 3月14日に新しい内容に変わります。

 

         


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