第1052回 いそぎ 仏に成りて  〜大きな慈悲心をいただいて〜

 平成25年 3月21日〜

親鸞聖人は、この世で悩み苦しんでいる人びとを何とか救いたいから、
さとりを開き、仏になりたいと思われたのでしょうという

意味の事を書かれている本がありました。

お浄土で、この世が終わったところで仏に成る。
これは「つらいこの世を逃げ出し、生命終わってから、楽しい世界に

生まれよう」という、自分中心の考え方ではないのであって、
この世の問題を何とかしなければならないからこそ、親鸞聖人は
「仏に成る」ということを大切にされたのであります。

この聖人のお気持ちは、「歎異抄」の第四条、
「慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは・・・
  おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし」
 というところに味わうことができます。

「聖者が、この世で立派な人間になって、人びとを救う慈悲と
  いうものがあるが、それは、思うように助け遂ぐることはきわめてむずかしい」と
 おっしゃっているのです。

ほんのささやかなことでも、なかなか自分の力で思うように解決することは

できないのに、いわんや人生の一大事、大きな問題、個人の力では
どうにもならないことがあまりにも多いということを、身にしみて感じて
いらっしゃったのが、この言葉となって表れたものでありましょう。

その次に、

「浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもって、
  おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり」と続いているように

「仏に成ってこそ、思う存分救うことができる」とおっしゃっているのであり、
仏に成ることの大切さを思わずにおれないのであります。


 これは、「亡くなった人びとを、生き残った者がどう弔うか」という問題と
つながってくるのであります。


ふつうは、「亡くなった父や母、子供は、いったいどこでどうしているのであろうか」と、
生き残ったこの世の人たちが、先立った人を心配するのです。


しかし、本当の意味で、「仏に成る、阿弥陀さまと同じさとりを開かせていただく」
ということであれば、この世で迷いの人生をくり返している私たちが、

さとりを開いた仏さまの心配をするのでなく、反対に、仏になられた先祖、
先に往かれた方が、迷っている私たちの心配をしてくださる、ということになるのであります。

私たちは、先祖の心配をするのではなく、自分自身の人生を心配しなければなりません。
迷いに迷いを重ねていかないように、精一杯力を尽くし生きて

いくということに、心を向けていかなければならないのです。

私は、ここに、祖先の方の問題と、「さとりを開く」ということの
つながる点を感じたのであります。

                 門主法話集 「さとりと信心」より

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、3月28日に新しい内容に変わります。

 

         


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