第1054回 仏心とは 大慈悲これなり  〜仏陀の究極の心〜

  平成25年 4月4日〜

 梯實圓先生の こんな文章にであいました。

「仏説観無量寿経」(観経)というお経があります。

阿弥陀仏のお姿や、その「さとり」の領域であるお浄土の
ありさまを通して、そこに表現されている仏陀のお心を
知らせようと説かれたお経です。

そのお経の「真身観」という一章に

 仏身を観ずるをもってのゆえにまた仏心を見たてまつる。
  仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈をもって
  もろもろの衆生を摂す。

 と説かれています。

ところで「仏心とは大慈悲これなり」という経文を読んで

「どうして大慈悲なの」と疑問を持つ人もいらっしゃるかと
 思います。

それというのも「仏」とか「仏陀」というのは、インドの
「ブッダ」の音を漢字で移した音写語でした。

「ブッダ」とは、まことの道理(真理)に目覚めた方
という意味を表しており、さらには人々を真実に目覚め
させる方という意味を表していました。

真理に目覚めることを「覚」といい、また日本語では
「さとり」といいます。

それは真実を知る「智慧」の働きですから、「仏心とは
智慧これなり」というべきでしょう。

それを何故「大慈悲これなり」といわれたのでしょうか。


 実はそこには深いわけがありました。
仏陀の「智慧」と、私どもが一般にいっている「知識」

とは本質的にちがっていたからです。

どちらも「知る」というはたらきですが、知識は物事を

客観的、対照的に捉え、分析し、分類して、それぞれの
違いをはっきりとさせることによって、物事を正確に
理解しようとする働きのことです。

それに引き替えて「さとりの智慧」は、生と死、知るものと
知られるもの、自分と他人とを別物として区別しないで、
同じ「いのち」の繋がりの中で、切り離すことの出来ない
「一つのもの」と見ていきます。

ですから、生を肯定して死を否定したり、生を否定して
死を肯定したりすることはなく、生も死も、どちらも
有り難いこととして受け容れていきます。

こういう物の考え方、見方もあるのです。

 こういう境地になりますと、存在するもは、生であれ、
死であれ、敵であれ、味方であれ、そのままを尊いものと
受け容れることが出来るようになります。

さらに、人びとの痛みを共に痛み、人々の悲しみを共に
悲しむ心が生まれ、人々のまことの幸せを純粋に願う心が
起こって来ます。

そのように智慧から必然的に顕れてくる心のはたらきを
仏教では慈悲と呼んでいるのです。

それは仏陀の究極の心ですから、「仏心とは大慈悲これなり」と

いわれたわけです。

 という文章に出会いました。  (
ないおん 25年4月号より )

  近頃  他の人の悲しみが 少しづつ味わえ その人の
幸せが願える心が 感じられるようには 思えませんか。

妙念寺 電話サービス お電話有り難うございました。
次回は、4月11日に 新しい内容に 変わります。


 
 

         


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