第1066回 今ここでの救い 2  〜いつも 一緒に〜

 平成25年 6月27日〜

何度も繰り返し拝読・拝聴していく中で、み教えに出あえたよろこびを
深めていただくことが出来る 大きな特徴がある 「拝読・浄土真宗のみ教え」という
ご本があります。この度 その解説書ともいえる 布教教本が発行されました。

その中の 「今ここでの救い」 の項目には このように書かれています。

念仏の教えにあうものは、いのちを終えてはじめて
救いにあずかるのではない。
いま苦しんでいるこの私に、阿弥陀如来の願いは、
はたらきかけられている。

親鸞聖人は 仰せになる。
 「信心の定まるとき往生また定まるなり」

信心いただくそのときに、たしかな救いにあずかる。
如来は、悩み苦しんでいる私を、そのまま抱きとめて
決して捨てることがない。

本願のはたらきに出あうそのときに、煩悩を
かかえた私が、必ず仏になる身に定まる。

 苦しみ悩む人生も、如来の慈悲に出あうとき、
もはや苦悩のままではない。

阿弥陀如来に抱かれて人生を歩み、さとりの世界に
導かれていくこととなる。

まさに今、ここに至りとどいている救い、これが
浄土真宗の救いである。


「拝読 浄土真宗のみ教え」 にあることばです。
これは、親鸞聖人のお手紙に
「真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。
このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし、
信心の定まるとき往生また定まるなり」 を元に書かれたものです。

はじめてのおつかいという番組がありますが、
四歳の女の子がおじいちゃんの三七日に、お供え物を買いにでかけました。

出かけるに際して、お母さんがおじいちゃんのネクタイを仕立て直した、
小さなカバンを 「何かあっても、おじいちゃんが一緒だからね」 と言って持たせました。

 順調に思えたおつかいでしたが、途中の分かれ道でどちらに行けばよいのか
迷ってしまいました。今にも泣きだしそうになって、キョロキョロ周りを見渡しますが、
どうしようもありません。

ハッと、突然、肩にかけていた小さなカバンのことを思い出しました。そして、
そのカバンをさすりながら 「おじいちゃん、どっちかな。こっちかな」 と話しかけたのです。


 すると、それまで目に一杯の涙をためて今にも泣き出しそうだった女の子の
表情は、少しだけ安心した様子に変わりました。道に迷っている事態に何も
変わりはないはずなのに、おじいちゃんが一緒にいてくれるという、ただそれだけで、
心強く感じ、気持ちが少しだけ落ち着いたのです。落ち着いて相談しながら
道を選んで、無事にはじめてのかいものをやり遂げたのでした。 ・・・・・

との例話がありました。

いつも見も待っていただく阿弥陀さまがあるということを 味わうことで、
大人の私たちも 気持ちを落ち着けて 南無阿弥陀仏と相談しながら

お浄土への道を歩んでいきたいものです。

妙念寺電話サービス 次回は 7月4日に新しい内容に変わります。
  

         


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