み教えに聞く
(願いに応える人生)
 
 浄土真宗の根本が、聴聞・聞法であるということは、よくご承知のことと思います。
しかしそれは、口に出して言うだけではなく、常に自らに言い聞かせていかなければならないことでもあるのです。
  
法を聞く、み教えを聞かせていただくということは、簡単なようでありますが、必ずしもそうではありません。というのは、学校の講義のようなものでありますと、先生のおっしゃることを、そのまま理屈を追って理解すると、先生の教えられた結論と同じ結論が、自分の手元のノートにも出るわけであります。
しかし、み仏さまのお話を聞かせていただたく場合には、必ずしもそのお言葉やお心が、私の手元で、その通りにあらわれてくるとは言えないのです。
人間というものは、しばしば一人よがりの、自分の都合のいい受け取り方をしてしまうもので、したがいまして、自らの体験の中であらためて確かめてみなければなりません。
私も、そういった意味で、聞法の大切さを、くりかえし聞かせていただかねばならないと感じているこの頃でございます。
仏法が、この世を上手に生きていくための手段ではないことは、言うまでもありません。
今のように社会を取り巻く情勢が不安定になってまいりますと、人間というものは、なんとかしてうまく生きてゆきたい、無事に人生を送らせてほしい、という気持がわいてくるものです。
それは当然のことではありましょうが、お釈迦さまが、そして親鸞聖人が、一生かけて明らかにしてくださった教えは、上手に人生を生きるということではないと思うのであります。
上手に生きるか上手でないかということではなく、真実であるかないかという別の基準があると思います。
その真実に照らして、私の人生がどうであるのか振り返り、それを正していくのが、仏法の聞き方ではないでしょうか。
ですから、真実を真実として受けとらせていただくようになるまでには、相当の努力と時間がかかることでしょう。
その場合、先に申しましたが、自分の心が納得し、満足できるようなことは、しばしば、自分だけに都合のいいことでありまして、すべての人にわけへだてなくあてはまる良さではないと思います。
それに反して、み仏の真実は、必ずしも私に都合がいいことではないかもしれませんが、真実であることにおいては、私一人ではなくて、生命あるものすべてに真実である、真実はこうである、と教えてくださっていると受けとっております。
ところで、現在、私たちは、この人生を送ります上で、大変難しい問題をたくさん抱えております。
もちろん、この時代に生きている私たちだけでなく、過去においても、それぞれの時代の方が、大きな困難を抱えて一生を過ごされたことと思います。
親鸞聖人の時代も、私たち歴史の素人にはどこまで
理解できておるのかわかりませんけれども 「 源平の戦い 」
があり、ちょうど社会が大きく変わっていった時であります。
その上に、天災地変というような、今ではかなり科学技術の進歩によって解決されていることも、そのまま一人ひとりの身の上にふりかかってきている時代であったと思います。
そういう意味では 「 私たちだけが苦労しているのだ 」 ということは、少しあまえた感情になる気もしますけれども、やはり現代に生きる私たちもまた、自らの一生をかけて努力しなければならない問題を多く抱えていることは、確かだと思います。
そういった点で、み仏の教えを聞かせていただきつつ、現代を振り返ってみますと、自分自身を見失っているということが言えるのではないでしょうか。
特に今日、科学技術が進歩しまして、人間一人の力ではできそうになかったことが、科学の力によってたくさん達成されました。
今まで治らなかった病気も、治るものが多くなりましたし、また夏暑く、冬寒く困っていた生活も、多くの家庭で、夏はクーラーによって涼しく、冬はストーブなどによって暖かくすごせるようになってまいりました。
大変ありがたいことであり、私たちは、そういった便利さを受けとっているわけでありますが、ともすれば、その便利さの方に気を取られ、心を奪われてしまい、人間自身の内実にかかわる問題を忘れつつある、といえるのではないかと思います。
なにも便利な生活がいけないというのではなくて、そういうものにだけ心を奪われて、大事なことを忘れているということであります。
そういった上で、特に仏教が歴史の上で常々教えてまいりました人間の「生命」、あるいは生命の終わる「死」という問題が、私たちの目から見えないところへいきつつあるように思われます。
もちろん、病気をして死に直面した方など、いろいろ体験をもっている方はいらっしゃいますけれども、世の中全体を
ながめますと、専門化された病院の病室の中に人間の生命は
閉じこめられてしまって、家庭において家族一人ひとりが真剣に
生命について考える機会は薄れてまいりました。
したがって、あたかも私たちは死なないような、死とは関係がないかのような毎日を送っています。
これは、やはり社会の動きがそういうふうな世の中を作っていることに大きな原因があると思うのでありまして、ただ単に人間が死ということを考えなくなったのではなく、社会全体がそうなったというところに問題があるように思います。
同時に、そうであるからこそ、私たちは、より真剣に考えなければならないと申せましょう。
そういった私自身、私の生命といったものに無関心になっていくと同時に、今度は自分以外の他の人を本当の暖かい目で見る、暖かい心で包むことができなくなってきているようにも感じます。
その一つの例としまして、皆さんもご存じかと思いますが、本願寺から出しております 「本願寺新報」 の四月のある号に、九州の若い僧侶の方が書いておりました記事の中に、次のようなものがありました。
最近、教育の面においては大変深刻な問題を抱えているわけですが、あるお父さんが小さな子どもさんの手を引いて道を歩いていると、おそらく不注意からでありましょう、子どもさんがよそ見をして歩いている間に、道端に停めてあった自動車にぶつかってしまったそうです。
これは、よくあることだろうと思いますが、その時に、そのお父さんがどうしたかと言いますと、不注意であった自分の態度、あるいはよそ見をしていたその小さな子どもさんの態度とはまったく関係なく、こんな所に停まっている自動車がけしからんと、タイヤを足で蹴飛ばしたということが書いてありました。
また同じような例として、小さな子どもさんがピンポン台にぶつかってころんだところ、このピンポン台が憎らしいと言って台を手でなぐった、というような出来事が述べてありました。
私たちの社会は、こういうふうに、自分で取るべき責任と、自分以外のところにある原因とを区別することもできなくなる傾向にあり、ただ、そこにある自動車が、私を攻撃しているかのように受け取る人間に育ちつつあるのではないでしょうか。
物ですらそのようなことですから、もし人がそこに立っておりまして、よそ見をしながら歩いてぶつかったら、私たちはどういう態度を取るでしょうか。
「 こんな道のまん中に立っておってけしからん 」 と、先ほどの子どもさんと同じような態度に出かねない。
そういった風潮が世の中に広がりつつあるのではないか、と非常に恐ろしく思ったのです。
そして、これは 「新報」 に書かれていた一つの出来事として受け取ったのではなく、そういうよく似た場面に出くわしたら、私はどうなのであろうかというふうに考えると、大変恐ろしい気がいたしました。
現代の日本はどうなった、近頃の若い者は、などといった言葉をしばしば耳にし、また自らも口にいたします。
しかし、宗教の問題は、それが自分の問題となったところに本当の意味をもってくるのだと思うのであります。
そういう世の中に住んでいますから、私たちは、しばしば、心が落ち着かず、不安になります。
いくら科学が進歩したと言いながらも、科学の教えに会わない占いやお守りという迷信が、かえって世の中に広がっているということも、人間の不安のあらわれではないかと思うのであります。
私たちは、親鸞聖人の教えにしたがって、迷信には頼らない、お守りや占いは信じないということを、口にはいたしますけれども、そういったものに頼らざるをえなくなっている人間の弱さ、心の弱さにも目を向けなければなりません。
そういう弱い人間が、迷信に頼らなくてすむような力を与えて下さるところに、お念仏の教え、浄土真宗の信心の大切な意味があるのです。
心のよりどころとしての南無阿弥陀仏を、しっかりと受けとめるところに、迷信に頼る必要のない、お念仏に生かされた人生が開けてくるのです。
私たちの人生は、世の中の目に見える、あるいは目に見えないつながりの中に成り立っております。
それは、私をいろいろな面からしばりつけているように理解することもできますが、同時に、私をすべての面で支えて下さっているというふうにも理解することができるわけであります。
また、私がすべての人に対して尽くすことができるつながりでもある、と受けとれるものでありましょう。
そういう意味で、この私は、大きな社会の中にあって一粒の種にすぎない人間でありましても、限りなく広い世界につながった人間として、何事にも常に深い反省と謙虚さが必要でありましょう。
同時に、小さく見えても、大きな世界につながっていくものとして、積極的な人生が送られることになると受けとることもできましょう。
み仏のお心をいただくということは、私の生命、私自身を深く顧みて、一体この世の中でどういう自分であるかということを、謙虚に知らせていただくことであります。
また、み仏の広いお心に包まれて、自己中心的になりがちな、また生きている限り刹那的になってしまいがちなこの心を常に開いて、限りないみ仏の生命の世界に向かって人生を送らせていただきたいものと思います。
 
昭和53年5月26日
 
            
浄土真宗本願寺派 大谷 光真 門主述
           
本願寺出版社刊 「願いに応える人生」より
(内容転用の場合は、本願寺出版社の了承をお取りください)

   

本願寺公式ホームページ へ  
妙念寺ホームページへ