み光に照らされて
(願いに応える人生)

 皆さま、すでに新聞などで、少し耳にしていらっしゃる方もあるかと思いますが、今月の一日から、明日の六日まで、世界仏教徒会議・日本大会という催しが、東京と京都を中心に開かれています。

たまたま、本年は浄土真宗本願寺派の門主が、全日本仏教会の会長をつとめるという順番に当たっておりまして、役目上、私も、その大会の開会式などに出席いたし、各国からのお客さまをお迎えしたのであります。

 会議の中で、具体的にどのようなお話が出ましたか、まだ詳しく聞いておりませんけれども、この大会では 「 21世紀におくる仏陀のメッセージ 」という、何か将来への私たちの希望、あるいは使命といったものを考えさせる、示唆に富んだテーマが掲げられております。

 この大会には、世界各国の方々がおみえになっていらっしゃいます。
主に、東南アジアの発展途上国といわれるようなところから多く来ておられ、同じように二十一世紀といいましても、その方々と私たちの考える二十一世紀では、おそらく考えることがずいぶんと異なってくる場合があると思います。

そうした中で、話し合ったことがらがまとまるかどうか、たいへん難しいことでありますが、それぞれ違った考え方があり、そうした者が互いに手を取り合っていかねばならない、ということが導き出されれば、それはそれで、大きな成果であると申せましょう。

 明日、京都で閉会式が行われました後、各地でまた集いが持たれるようでありますので、皆さま方も、そういう方々に会われましたときは、暖かく歓迎をしてさしあげていただきたく思います。

 さて、ちょうど、二十一世紀ということが出ましたので、私たちも、少し将来のことを考えてみることにしてみましょう。

 現在、地球上には、さまざまな問題が起こっております。
南と北に分かれての政治的な対立の問題、経済的な問題、さらには核兵器による地球全体の危機という問題など、深刻な問題が山積しております。

そうした問題を前に、私たちは、二十年後の二十一世紀に、どんな夢を描いていったらいいのか、これは、私たちにとって、大きな問題であります。

 少し以前の書物などをみておりますと、二十一世紀はバラ色の世紀である、などといいはやされておりました。

いままで出来ないと思われていたことが、次つぎと実現するであろう、というふうにいわれておりました。

例えば、科学・技術の発展で、陸上だけでなく、海の中でも生活することが出来るようになる、あるいは宇宙でも生活が出来るかも知れない、というぐあいに。

 しかし、今日では、そんな美しい夢ばかりを描いてはいられない、次つぎと起こる深刻な問題に、どうやらバラ色の世界は実現しそうもないのではないか、ということがわかってまいりました。

それは、科学や技術だけではいけない、科学や技術を動かしている人間の問題が、充分に考えられていない、というところからくるものでありましょう。

私は、科学・技術の成果は、たいへんすばらしいものだと思っております。
けれども、そうした成果を、何のために、誰のために利用するのかということを考える人間そのものの問題を、しっかりと考えてみたいと思うのであります。 

 どんなにすばらしいものでも、一部分の人だけがそれを使い、他の人びとの手に渡らないようにいたしますと、かえって、さまざまな不幸が起こるということは、みなさまも体験を通して、よくご承知のことと思います。

先進国と開発途上国というところで起きる問題は、そうしたことをもとに起こる問題でありましょうが、そうした問題に加えて、人間どう生きるべきかということを、世界的な広がりのなかで考えねばならないように感じるのです。

 人間をみつめるということは、簡単なようで、なかなかやさしいことではございません。

最近、科学の分野でも、心理学とか人間学とか、いろいろな角度から人間を追求し、今日では、人間工学といいまして、体つきや手足の動きまでをも研究する学問も出てきました。

けれども、そうした科学がたどりつくことの出来ない人間自身の問題は、放置されたままであります。

 それは、外側からみた人間の問題ではなくて、自分自身の人間という問題ではないでしょうか。

どんな学問でも、なかなか自分のことは研究できません。自分を離れ、外側に人間をじっくりと眺めますと、いろいろなことがみえてまいりますが、いざ自分自身のこととなると、なかなかみえてまいりません。

そういう意味で、ほんとうの自分を知らせていただくことこそ、いま、私たちが問題にしなければならないことといえましょう。

ここにおいて、宗教の問題、あるいは浄土真宗の問題が、二十一世紀を考える中で取り上げねばならない問題として、浮かび上がってくると思うのであります。

 私は、人間の問題を考える中で、まず、自分自身の中には頼るべきものがないということにおいて、この問題を捉えたいと思うのです。

 ふつう、私たちは、生まれてから、家庭で、あるいは社会で、さまざまな知識や習慣、礼儀作法と、いろいろなものを身につけて成長してまいります。

学校へ入りまして、読み書きに始まって、だんだん難しい知識も身につけていきます。
そういうものをうまく身につけている人は、社会の中でよい地位につくことができますし、あるいは、みんなから、あの人はすぐれた人だというふうに、認められるようになるというのが、この社会であります。

 そうした中でも、特に、いま、片寄って評価されるものに、学校の成績というものがあります。
学歴偏重ということで、今日、大きな問題ともされています。

私は、ある程度、社会生活を担っていく上で、そういう人間の能力を基準にして、ある種の能力のある人、そうではない人、という区別をすることもやむをえないと思いますし、また、人間が努力をする目標という上からも、自分はまだ不充分だから、優れた人に追い着くように努力をしよう、という励みの対象という意味からも、このことは認められると思うのですが、しかし、それだけが人間ではない、ということを決して忘れてはなりません。

 風俗、習慣、道徳に始まり、さまざまな知識・技術といったものが身についているかどうか、ということのさらに奥に、そういうものをどういうふうに使っていくことができるかという問題があります。

さきほど申しましたように、科学をどういうふうに使うかということと同じ問題でありますが、自分自身の持っている力を、何のために使っていくかということになるわけであります。

その根本のところを考えてみますと、実は、しっかりとした頼りになるようなものは何もない、ということに気づかされるのであります。

 特に、人生の根本問題であります命の問題、この命が、近いか遠いかはわかりませんけれども、いずれ終わってしまう、この世を去らねばならないといった問題を、深刻に考えるといたします。

それを、自分の力でどうすることもできない、まことに自分自身は頼るに頼れないものである、ということに気づかされるのです。

今日、青少年が、自ら命を絶ってしまうということが、新聞にたびたび報じられております。

数字の上で、過去に比べて特に増えているかどうかは、疑問のようでもありますが、しかし、そうしたことが、大人の関心を呼び起こす、大人の人にとっても心配ごとになってきたわけです。

かつては、どこか社会の片隅で、そういう不幸もあったかも知れない、というぐらいに考えていた日本人が、今日では、わが子がそうなるかわからないという不安にかられてきたということは、大きな違いでありましょうし、それには、それなりの理由があると思うのであります。


 いろいろ想像することが出来ますが、私が思いますのに、自分自身の中に依りどころを持たないということが、うすうす青少年にまで知られてきたのではないかと思うのです。

したがって、積極的に生きていく力を失って、自らこの世を去っていこうとしているのではないか、といえるのではないでしょうか。

 頼るべきものが自分自身のなかにない、ということを知ることは、宗教的には、私は、一つの正しい考え方だと思います。

しかし、それだけに終わってしまっては、頼るべきもののない私が、暖かい心に包まれ、支えられて生きていくことができるという世界のあることを、知らずに終わってしまいます。

そういう世界を、私たちは、知らせていただかねばなりませんし、また、真実の光に照らされてこそ、ほんとうに自分自身の醜い姿、
頼るべきものもないのにごまかしている自らの姿、というものも
一層見えてくるのであります。

ふつうは、自分自身の姿をあまり見たくございませんから、
何か外面的な喜びや楽しみを捜し出しまして、楽しく暮らそうとします。
人は、これを 「 気晴らし 」 などと呼んでおります。


 現実のさまざまな問題から目をそらし、一時的に忘れてしまって、
そうすることによって、命の問題をも考えようともせず、どうにか
この命をつないでいるというのが、私の姿ではないでしょうか。

そうした私たちが、正しい教えを聞かせていただいて、真実の光に
照れされ、真実のこころに抱かれていることを、受けとらせて
いただくとき、はじめてこの人生を力強く歩ませていただくことが
できるようになるのであります。

 親鸞聖人の 『 ご和讚 』 にも、

  本願力にあいぬれば

   むなしくすぐるひとぞなき

   功徳の宝海みちみちて

   煩悩の濁水へだてなし

というのがございます。

本願力にあうことができたならば、むなしく人生を
過ごす人はないということで、この人生は、限られたものでありますが、
それが、短い人は短いなりに、また長い人は長さに応じて、
充実したものになっていくということであります。

そして、それは、自分自身の中に、自分の依りどころを積み上げて作って
いくということではなくて、真実のみ仏が南無阿弥陀仏となって、
ただ一つの真の依りどころとなってくださいますから、決して
時の経つ上で、時間とともに力がなくなってしまうとか、不安が
またやってくるといったようなことではなく、時間を越えて、時と所を
越えて、私は如来に支えられて、力強く人生を歩ませて
いただけるのであります。

 しばしば、他力本願というようなことばが、世の中で使われておりますが、それは自分でできることを、あるいは自分の欲望を満たすために、他の人、他の者に頼って生きる生き方を意味しているようであります。

しかし、私たちのほんとうの意味のお救いというものは、そういったことではありません。
人間自身の持っているものを深く追求していきますと、自分自身だけでは支えることのできない広い世界があります。

それは、また、み仏のお力によって導かれていく人生がある、ということでもありましょう。
いいかえますと、それは、狭い意味の自分の欲望を満足させるような
人生ではなくて、むしろ逆に、自分にとらわれた人生を、真実の光によって砕いていただく人生であるともいえましょう。

それは、そのまま、み仏の世界、お浄土につながっている人生でもあります。

 お浄土へ生まれさせていただくということも、この世がつまらないから、また依りどころがないから、命終わったら変わることのない世界に生まれたいというのでは、一面的な理解であって、真実の世界から常に導かれて、支えられて、この自分自身のなかに依りどころのない世界を、あやまちを犯しやすい身であっても、一歩一歩あゆませていただくのだ、という面も忘れてならないと思うのであります。

自分だけでは、真実の人生、真実の社会をつくっていくことのできない自分を振り返ることを懴悔といいますが、常に懴悔の念を抱きつつ、しっかりとした依りどころをみ仏の方から与えてくださっていることに気づかせていただき、およばずながらも、力ある限り努力させていただく、そこに人生が開けてまいるのではないでしょうか。

 科学・技術をいかに使うかといったことも、そうした人間のあり方を考える中から、同時に取り組んでいく問題となるかと思うのです。

世界仏教徒会議というものが、ちょうどいま開かれておりますことから、そうしたことを話題に含めながら、私の最近味わっておりますことを、お話させていただきました。


昭和53年10月5日

 

浄土真宗本願寺派 大谷 光真 門主述
        
本願寺出版社刊 「願いに応える人生」より


(内容転用の場合は、本願寺出版社の了承をお取りください)

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