「 家の宗教 」
に思う
(願いに応える人生)
今月(一九七八年十月)の初めに、東京を中心といたしまして、世界仏教徒会議・日本大会が開かれました。
これは、世界各国の仏教徒が、国境を越え、また宗派を超えて、一堂に会し、さまざまな問題を話し合うという大会であります。
そこで話し合われました内容のことは 「 本願寺新報 」
にも記事となっておりますので、ご覧いただきたいと思いますが、そこで感じましたことを一つ取り上げて、皆さまとともに考えてみたいと思います。
それは、大会の会議のことからは外れますけれども、夜に開かれました歓迎の懇親の場でのことであります。
おそらくヨーロッパからこられた方だと思いますが、婦人の方が、英語で私に質問されました。
「 あなたの奥さんは、仏教徒ですか 」 というご質問でした。
私は、そのときも布袍・輪袈裟を着けておりましたので、当然、浄土真宗の僧籍にあるものだということは、見ただけでおわかりいただける状態であったわけでありますが、どうしてこのような質問をなさるのか、一瞬、ちょっと理解をしかねました。
どうお答えしたらいいのだろうかと、戸惑ったのでありますが、「
確かに仏教徒です 」 とお答えいたしました。
それで会話は終わり、女性の方も、安心したような顔をなさっておられましたが、あとになって、いろいろ思いを巡らしてみますと、西洋では個人主義が非常に徹底しておりまして、夫婦の間でも違う宗教を信じているということが、おそらくあるのであろう、また、西洋のキリスト教の国の中で仏教を信ずるということは、相当勇気のいることで、思い切ったことでもあるのかと想像するのであります。
そういう事情の中で、その方は、私の家族のことにまで関心をもたれたのであろうと想像いたしまして、私自身も納得をしたわけであります。
こういうことを考えますと、個人の宗教、あるいは家族全体、家の宗教といったもの、また、そのあり方を、はからずも考えさせられたわけであります。
日本の宗教、とくに仏教は、従来から、家の宗教ということばで、いろいろと批判をされてまいりました。
特に、本願寺派では、ここ十数年前から、門信徒会運動という宗門の体質を改善していく運動を進めております。
また、お隣の大谷派では、少し内容は違っているかも知れませんが、やはり同朋会運動という宗門の体質を改めていく運動をしておられます。
そこでいつも話題になりますことが、個人の宗教、個人の自覚ということであります。
そして、家の宗教であってはならないという表現をされるものですから、家の宗教というのは、よくないことのように思われるのであります。
しかし、これは、いろんな意味をもっているのではないでしょうか。
まず、最初に、ほとんどの宗教は、ことに浄土真宗は、個人の信心ということを第一に考えるわけでありますから、まさに、個人の宗教でなければなりません。
私が、み仏のお慈悲を喜んでいるかどうか、救いをうけとっているかどうかということが根本でありますから、そういう意味で、私個人の宗教として、私の自覚、私が教えに目覚めていかねばならない、ということがいえるわけであります。
親鸞聖人も、『 歎異抄 』 という書物の中に、 「
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり
」
というおことばを残していらっしゃいます。
み仏の本願をよく考えてみると、親鸞一人のためである、とおっしゃるところに、人生の根本問題は、誰一人として他の人に代わっていただくことのできない、私自身がすべてをひっくるめて担っていかねばならない私一人の問題である、ということがございます。
西洋の哲学者は 「 単独者 」 などという言葉を使っているようでありますが、そういう私以外の人に代わってもらうことができない一人の問題である、ということが人生の問題の根本であります。
自己中心的に煩悩をよりどころとして動いているのが、私のあり方でありますが、その私が、み仏の真実によって生きていく、そういう人生に改めていくということですから、そういう意味で、浄土真宗は個人の宗教でなければならないということは、皆さまにもご理解をいただけるところであります。
しかし、それでは、家の宗教ではどうして悪いのであろうかということも、考えなければならないと思うのであります。
私は、家の宗教ということには、よくない面もありますが、同時に、たいへん素晴らしい面もあると思います。
ですからことばだけを取り上げては、たいへん危険なことであって、その内容をよく考えてみなければならないと思うのであります。
とかく、家の宗教が悪い意味で批評をされますのは、
個人のことはあまり考えないで、私自身はよく信仰のことはわからないけれども、私の家は禅宗です、浄土真宗です、というようないい方をされる場合とか、あるいは儀式をするのを、どの宗派によるかというときに、私の宗派は浄土真宗ですというように、形だけの宗教としてとらえられている場合であって、これはやはり好ましくないことでありましょう。
そういう場合、宗教の問題は、その一族の中で最も年長の方々にお任せをしておいて、若いわれわれは、まだお寺参りをするような歳ではないというようなことばが出てまいります。
それは、儀式だけを行う宗教という考えによるもので、老後、暇のできた人に任せておこうということにもなるのでありましょう。
そういった意味での家の宗教を考えますと、これは形だけの宗教になってしまいます。
そういう意味で、私は、家の宗教をある程度批判されるのもいたし方のないことだとおもうのであります。
同時に、少し広い意味で、家族の宗教を考えますと、先ほど申しましたように、夫婦や子供がそれぞれ違う宗教を信じておったのでは、現実に家庭生活を営むことは、とても困難になりましょう。
家庭の中心にお仏壇があって、そのみ仏を中心にして、家族が一つの真実をそれぞれ自らの依りどころとして助け合い励まし合って生活をしていく、私は、ここにたいへん美しい家族の姿があると思います。
本願寺派の仏教婦人会でも 「 念仏にかおる家庭を築こう
」 ということを、つねづね主張しております。
そういう美しい家族を作っていこうというところに、宗教のもっている大事なはたらきがあるというわけで、そういう意味では、形がばかりの家の宗教ということではなくて、本当の血のかよった家庭の宗教になることは、たいへん望ましいことであります。
そこで育っていく子どもも、また同じその真実を、お念仏を受け継いでいく、これはまことに美しいことであります。
宗門は、ここ何百年もの歴史をもっておりますが、そういうお念仏の家庭が代々つながって、お念仏が受け継がれてきたということに、私たちは大きな誇りをもつべきでありましょう。
そういう意味では、家庭の宗教ということばの意味のなかに、たいへん大事な点が含まれていることも忘れてはなりません。
そういったことを、仏教徒会議の懇親の場を通して感じさせられたわけでありますが、今日、わが国の家庭生活が大きな問題を含んでいることは、ご承知の通りであります。
親子別居がすすみまして、夫婦だけ、あるいは夫婦と幼児または若い子どもだけの家庭が増えてまいりました。
それと同時に、自分の家だけに閉じこもった、自分の家族だけを考える自分中心の生活というものが、多くなってきているようにも思われます。
ちょうど、そのことは、今日の住宅事情にあるのでありまして、大勢が一緒に住むということが困難であるということが、理由の一端かと思います。
しかし、そういう小さな家族だけで、まとまって暮らしていくということが、同時に、自分たちだけの生活を大事にと、そればかりを考える人間をも育ててきていることを痛感するのであります。
私たちは、もちろん、人間として、まず第一に、自分のいのちのことを考えるようにできております。
そして、また、近い家族を大事にするということも、人間として素直な考え方でありましょう。
しかし、それだけに閉じこもってしまったのでは、社会生活は、はなはだ難しいものになってまいります。
他の人とのおつき合いということが、非常に難しくなってきているように思われます。
それは、私たちのこころが、非常に狭く、閉じこめられてしまっているからではないでしょうか。
でありますから、そういった、いわば凡夫の願っている狭い幸せではなくて、み仏の、如来の願いとしての限りない真実、幸せというものに、心を開かなければなりません。
人間がふつうにもっております幸せへの願いは、せいぜい、健康で、長生きをしたい、自分を含めて、家族・身内が、幸せであればいいということであって、少し離れた人のことは、あんまり考えている余裕なんかないではないか、いわんや、国が違い、宗教が違う、遠い外国の人のことなんか考えているゆとりはありません、とういのが私たちのいつわらぬ姿であります。
しかし、また、それは同時に、たいへん多くの不幸を、この世の中にもたらしている原因の一つでもあると思うのです。
私たちは、み仏の限りない願いというものを、つねに、お聞かせいただき、そういった自分中心の生活から、み仏の真実中心の生活に人生の向きを変えていかなければならないと思うのであります。
南無阿弥陀仏という、み仏からのお呼びかけのおことばは、私たちが自分自身の中に正しい真実の依りどころを持っていないことを自覚させてくださる、しかも、そんな私の本当の依りどころとして、み仏から呼びかけてくださっているおことばであります。
私たちは、そういう南無阿弥陀仏を真実の依りどころとした人生を送らせていただくところに、個人の心の依りどころをもつと同時に、また美しい家庭を築き、真心の通った社会を築いていく芯を与えていただくことができるのであります。
そして、それが、本当に身についたものとなっていくためには、朝夕の家庭における仏前での礼拝はもちろんでありますが、機会あるごとに、南無阿弥陀仏のおこころを私自身のこころに聞かせていただく、お念仏の生活が、なによりも欠かせません。
昭和53年10月25日
浄土真宗本願寺派 大谷 光真 門主 述
本願寺出版社刊 「願いに応える人生」より
(内容転用の場合は、本願寺出版社の了承をお取りください)