真実との出会い
(願いに応える人生)

−報恩講に寄せてー


 ちょうど今ごろ(十一月)になりますと、全国の真宗のお寺では「 報恩講 」 が営まれているのではないかと思います。
「 報恩講 」 は、地域によりまして、少しずつ習慣が違うように聞いております。

ご門徒の一軒一軒のお家で 「 報恩講 」 をお勤めになるところもあれば、その地域ごとに何軒かのご門徒がいっしょに住職を招いてお勤めになる場合もある、あるいは、大都会などでは、お寺でお勤めがある程度というように、同じ 「 報恩講 」 でも地域によって違いがあるようであります。

 そこで 「 報恩講 」 にはどういう意義があるのかということについて、真宗のかなり盛んな地域といわれておりますある地区で、仏教婦人会の会員の方を対象にアンケート調査が行われ、その中に 「 報恩講とは、いったいどういう行事か 」 という項目がありましたので、そのことをご紹介しようと思います。

 そのアンケート調査は 「 報恩講 」 について、少し複雑ですが、親鸞聖人の生き方は私の生き方の上にどういう意味があるかを聞いてゆく法要という正しい答えとともに、秋の収穫を感謝するお祭りであるとか、あるいは先祖のご恩に報いる報恩の日であるとか、真宗の解釈としては正しくないものも混ぜまして、五項目の中から正しいものを選んでいただくという調査であったようです。

対象がかなり熱心な地域の仏教婦人会の会員であるにもかかわらず、正しい答えは二十一パーセントあまり、およそ二割くらいが正解で、あとの方は、ちょっと真宗としてはとることのできない答えにマル印をつけていらっしゃったといいます。

中でも多かったのは、ご先祖の恩に報いるための行事である、と考えていらっしゃる方で、全体の四割くらいあったということなのであります。

 浄土真宗では 「 報恩講 」 が一番大事な行事であるといわれているにもかかわらず、こういう結果が出ましたことは、たいへん残念なことであります。

『 浄土真宗必携 』 という、赤い表紙の本を、皆さまよくご承知かと思います。

数年前に宗門で作成されまして、広く皆さま方にもお配りしたことがありますが、そこに 「 報恩講 」 のことが書いてありますので、ちょっと拾ってみます。

 “ 御正忌報恩講 ”−−親鸞聖人のご命日 にあたって、聖人のご苦労をしのびつつ、未信の人は如来の本願を聞きひらき、獲信の人は味わいを深めさせていただく、真宗門徒にとって一番大切な法座です。云々と書いてあります。
さらい 「 御正忌報恩講 」 とは別に 「 お取りこし報恩講 」 の項目がありまして、そこには、 
 一月の御正忌報恩講には、門徒・僧侶ともども本山に参拝するのがたてまえなので、 一般の寺院では取りこして一月以前につとめます。 「 おとりこし 」 「 お引きあげ 」ともいわれるのはそのためです。

などという解説がございます。

ぜひ 『 必 携 』 をご覧いただきたいと思いますけれども、このように、浄土真宗で最も大切であるといわれる儀式が、先祖のご恩に報いるという程度のご理解しかいただいていないということは、たいへん残念であると同時に、私たちの宗門として、こころして考えなければならないことだと思うのであります。

 ご先祖の恩に感謝するということは、決して悪いことではありません。

きょう、ここに私がこうして生きていることができるのは、ご先祖のお蔭によることが多いことは確かでありますし、また、いろいろな意味で、先祖の尊い犠牲の上に、今日の私があることも確かなことであります。

そういうことを正しく認め、そういう方のことを忘れないで、常に謙虚な毎日を、感謝の日暮らしをさせていただくことは、たいへん大事なことだと思います。 
 けれども、ご先祖の恩に報いるというだけでは、本当の宗教にはまだだいぶ距離が遠いと思うのであります。

それは、個人の私のこころの目覚めということに、少し及ばないからだ、ということができるかと思います。

ご先祖の恩に感謝するということは、確かに意味の深いことでありますし、同時にまた、ご先祖でなくても、現在生きていらっしゃるご両親、または近い親類の方々も、今ここに私が生きていく上で、たいへんお蔭をこうむっていることでありますから、そういう方々の恩に報いることは、たいへん大事なことでありますけれども、それだけでは、私が真実に目覚めるということには至らないのではないかと思うのであります。

 真実に目覚めるということは、堅いことばで申しますと、罪悪生死の凡夫であることに、私が気づかせていただくことであります。

日常生活の上で、罪を犯し、悪いことをしたら、法律や道徳で厳しく処罰されたり、世間から非難されたりいたします。

そういう意味での罪、悪といったことにとどまらないで、世間で普通に申します法律上の、あるいは倫理や道徳上の罪悪からすれば、悪いことでも何でもないようなことまでも、宗教の真実、浄土真宗の真実に照らしてみると、たいへん深い問題をもっているということであります。

 たとえば、人間は、人間だけでなくて動物はすべてかと思いますが、他のものの生命をとらないと生きていくことができません。

今朝、皆さまと共にいただきましたお斎は、精進料理でありまして、動物そのものは料理の中に入っておりませんけれども、しかし、植物もやはり生命あるものであることには間違いありません。

また、植物、野菜を育てたことのある方は、ご承知の通り、植物を立派に育てるために、たくさんの害虫を殺さなくては生長させることができません。

そういう意味では、お精進のお調理であっても、多くの動物を犠牲にしたところに、やっと収穫がえられたものであることも、確かなことであると思うのであります。

しかし、そういったことは、法律の上からも、あるいは倫理・道徳の上からも、おそらく、ほとんど問題にならないことだと思うのです。


 しかしながら、み仏の真実、浄土真宗の真実の上から照らしてみますと、やはり、ものの生命をとって生きるということは、そのまま正しい、それでいいんだということにはならない、深い人間としての罪の問題をかかえている、といってよろしいでしょう。

もちろん、そうせずにはおれない、やむをえないことでありますが、やむをえないということと、正しいということは、かなり違ったことであります。

人間同士の社会の中での関係を考えてみましても、先ほど申しましたように、自分のお世話になった方、また先祖の方々を大切にするということは、たいへん尊いことではあります。

けれども、そのことばかりにとらわれますと、自分が世話になっていない人は、適当にあしらっておけばいい、困っていようと、それは私には関係のないことだというようなことが、同時に起こってくるのではないでしょうか。

 私たち日本人だけかどうか知りませんけれども、親しい者同士は、たいへん親切にいたします。

つい最近読んだものの中にも、親しいもの同士は、乗り物に乗っても席を譲り合い、空いている席に知人に座わってもらうように、実にうるわしいこころで譲り合っている、しかし、ひとたび知らない人ばかりの電車に乗りこんだ時には、われ先に席を争って、他人を押しのけても自分がいい席をとろうとする、これが同じ人間の
することだろうかというようなことが、やや冗談のような形で
書いてありました。

宗教的に深く顧みまして、自分が世話になっている人には、そういう親切にすることが、比較的に、素直にできても、知らない人にも親しく接することが、いかに難しいかを感じさせられるのであります。

 今日、社会の中でいろいろな問題が起こっておりますことも、そういうことからおして考えることができるかと思います。

そういった個人の生き方、それが、み仏の真実に照らしてどうかとなりますと、やはり、私は、罪を犯さずには生きていくことができない自分であることを、深く懴悔せずにはいられません。

しかも、簡単にそういう生き方をやめて立派な生活をすることができるかといいますと、必ずしも、そうではありません。

そこに、人間として、どうにもならない問題をもっている、また、人間が限りある生命をもっていることも、人間としての大きな問題かと思います。

そういったことを越えた人生、そういう罪悪の問題、あるいは限りある生命である生死の問題、そういった問題は、ただ単に、ご先祖の恩に感謝するということだけでは満たされない、より深い人間としての問題です。

 そうであるからこそ、阿弥陀如来の願い、ご本願が、私たちに向けられている、ただひとつの真実は、南無阿弥陀仏である、私たちにとって、真実はみ仏の智慧と慈悲がそのままこめられている南無阿弥陀仏しかない、ということに気づかせていただくほかないのであります。

南無阿弥陀仏ただひとつを依りどころとしていくところに、さまざまな問題を起こし罪を犯さざるをえないこの人生の依りどころが、本当の意味で私に与えられるのです。

 親鸞聖人の 『 ご和讚 』 の中に、
 
 弘誓のちからをかむらずば

 いずれのときにか娑婆をいでん

 仏恩ふかくおもいつつ

 つねに弥陀を念ずべし

という一首があり、弘誓のちから、本願のお力をこうむらなければ、いったい、いつ娑婆の世界、この私たちが生きている世界を出ることができるであろうか、そう考えると、仏さまのご恩を深く思って、念仏を申さねばならないーとおっしゃっておられます。

 娑婆を出る、生死を超えるということは、最終的には、この生命を終わって、お浄土に生まれた時でありますけれども、同時に、この世に生きている間も、お念仏ただひとつを依りどころとすることによって、ある意味で生死を超えた生活を送ることができる、すなわち個別の生死を超えた深い真実に導かれて人生を歩むことができるのである、と思うのであります。

親鸞聖人は、真宗のお念仏をする人の尊い姿を、蓮の花にたとえていらっしゃいます。

『 お正信偈 』 の中にも 「 是人名分陀利華 」 というおことばがあります。
分陀利華というのは、白い蓮の花であります。

この人を白い蓮の花と名づけるというふうにおっしゃっています。
蓮の花が、ちょうど汚ない泥の中から茎を伸ばして、美しい花を咲かせるのと同じように、人間のさまざまな問題が渦巻いている中にあって、しかも美しい花のようなお念仏を咲かせていく人生が可能になるということではないでしょうか。

それは、まったくの聖人君子になるということでもない、この世で悟りを開いて仏さまになるということでもない、同時にまた、どんな悪いことを犯しても、そのまま一向に振り返ることもなく改めることもないような生活でもない、ちょうど、そのどちらでもないことから、難しい人生であるかも知れませんけれども、そこに真実に出遇った喜びにあえるお念仏の人生が、無碍の一道といわれる道が開かれてくることであります。

 昭和53年11月8日


 

浄土真宗本願寺派 大谷 光真 門主述

本願寺出版社刊 「願いに応える人生」より


(内容転用の場合は、本願寺出版社の了承をお取りください)

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