お念仏を申すこと
(願いに応える人生)
最近、いろいろな方がたから 「 浄土真宗の教えはたいへん難しい
」 という感想をよく聞きますが、どうでしょうか。
皆さまも、よくご承知のことと思いますが、『
歎異抄 』 第二条の中に、
親鸞におきては、ただ、念仏して弥陀に たすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかむりて 信ずるほかに、別の子細なきなり
という親鸞聖人のおことばが記されています。
ある意訳を参考にいたしますと 「 親鸞においては、ただ、お念仏申す身になって、阿弥陀さまにたすけられなさいよ、という法然上人の仰せにしたがって信ずるほかに、特別のわけもないのである
」 とございます。
このおことばによれば、聖人は、難しい理屈やあれこれ詮索する必要もない、ということをおっしゃっていると思うのです。
しかし、私たちが実際に受け取るとなりますと、いろいろ疑問もわいてきますし、また、それに答えるとなると、いろいろとことばを連ねて説明しなければならなくなってきます。
そうしているうちに、だんだん難しくなって、最初言いましたような感想が出てくるのだと思います。
しかし、要は、聖人がおっしゃるように、お念仏申す身になって、阿弥陀さまに助けられるというところに基本があるということを、いつも振り返って味わわなければいけないと思うことであります。
これは、私の感想というよりも、私が日頃接している方から伺う感想に近いものでありますが、宗門のここ数十年の動きをみておりますと、どうもお念仏の声がだんだん小さくなってきているのではないかということです。
もちろん、南無阿弥陀仏を必ずしも大きな声で称える必要はありませんし、また声が大きければ、それだけ何かいいことがあるということでもないのであります。
その人、その人にふさわしい声の大きさでお念仏すればよろしいのですが、しかし、だんだん声が弱くなってきているということは、どうも確かなようです。
ところで、学問の上で、お念仏を称えるということは、どういう意味があるかといいますと、信心正因・称名報恩であって、南無阿弥陀仏と称えるのは報恩の称名である、ということです。
それ以上に詳しいことは、ここでは省略しまして、ごく単純に考えたいと思います。
やはり、声に出してお念仏を称えるか称えないかということが、ただ頭で理解する知識の宗教であるのか、あるいは人間の本当の身についた体験につながっていく味わいであるのか、という分かれ目にあると私には思われるのです。
最近、宗門にあまり関係のない方がたや小説を書かれる方、あるいは学問をしておられる方の中から、親鸞聖人を鑽仰する人が続々と出てまいりました。
しかし、そういう方の多くは、もちろん親鸞聖人自身に憧れをもち、その教えを讃えていらっしゃるのではありますけれども、どうも、私たちから見て、どこか物足りないと思われるのは、聖人の教えを知識として理解していらっしゃるのではないか、おそらく、声に出してお念仏を称えるということをなさらないのではないか、と思われる場合がたびたびあるわけです。
たとえ知識は乏しくても、また学者や有名な小説家のようにいろいろと詳しいことを知っているということでなくても、先ほど申しましたように、ただ素直に南無阿弥陀仏と口をついて出るような、そういう人間になっていくことが大切ではないかと思うのです。
もちろん、浄土真宗の要は、お念仏を申す身になることですが、それはまた、別の角度から言いますと、み仏のお慈悲にあわせていただき救われていく人間になることです。
ただ単に、口先だけのことではなく、人間のこころの問題でもあるわけです。
ところで、浄土真宗では、信心ということばを使っております。
一般に、いろいろな宗教が信心ということばを使いますので、たいへんまぎらわしいのですが、浄土真宗では、信心をするとは言わず、信心をいただく、信心をたまわるという言い方をしております。
そこに、人間が作り上げた信心ではなく、み仏から与えられた、阿弥陀如来によって呼び起こされた信心である、という大きな違いがあります。
そして、とかくいろいろな宗教が、なにか一つのことに執われてしまったような狭いこころを作ってしまうのに対しまして、阿弥陀如来によって与えられます信心は、執われ、縛られるのではなく、逆に、すべてのことにこころを開いていくような信心であります。
これは、なにも浄土真宗に限ったことではなく、真実に目覚めるということが仏教の基本でありまして、お釈迦さま以来、いろいろな方法がありますが、仏になる、真実に目覚めることをめざして、多くの方が努力してこられました。
そういう中で、浄土教の流れを汲む親鸞聖人の教えは、さとりをひらくことのできない、この世では仏になることのできない私が、み仏のお慈悲に救われ、すべてをみ仏にまかせて生きて行く道として、浄土真宗を開いてくださいました。
それはまた、別の意味で、心の目覚めであると言えましょう。
というのは、すべてのことを正しく見る仏さまのおさとりというのは、智慧を得られるということでありますから、完全な目覚めであるわけです。
しかし、私たちの信心というのは、そういう意味とは異なりまして、本当の自分の姿を知ることができない、完全に真実の教えを身につけることができない、そういう自分自身に対する深い自己反省、深い理解ということを伴っています。
そして、それは自分が立派な人になったというような容易な進歩の仕方ではなくて、立派な人にはなれないという、人間としての深い自覚が呼び起こされていくということであります。
ですから、ひたすらみ仏のお慈悲によるほかは、本当に救われる道がない私であるということを受けとらせていただくところに、浄土真宗でいう信心、こころの目覚め方があると思います。
親鸞聖人は 『 高僧和讚 』 の中に、
弘誓のちからをかむらずば
いずれのときにか娑婆をいでん
仏恩ふかくおもいつつ
つねに弥陀を念ずべし
という一首を作っていらっしゃいます。
意訳しますと
「 阿弥陀如来の広大な本願の力を蒙ることがないならば、いったい、いつの時になって娑婆をでることができるでしょうか。
仏恩を深く思いつつ、常に阿弥陀如来を念じなければなりません
」
となります。
私たちは、真実を求めて日常生活を重ねていきましても、それは、やはり人間のことでありますから、なかなか真実に至ることはできません。
このことは、とかく誤解をされまして、いくら努力に努力を重ねても駄目だから、もうやめておこうというふうな安易な考えに流されることが、しばしばですが、むしろ一生懸命に物事に取り組み、真実を求めて努力された方にこそ、この意味が理解できると思うのであります。
そういう意味で、人間の力には限界があり、私が今ここに生きていることの意味も、自分の力では正しく明らかにすることができないのであります。
では、どうしてここに、今、私は生きているのでしょうか。
近頃、子どもがお父さんやお母さんに口答えする時
“ なにも生んでくれといって、生んでもらったのではない
” などという言い方をして、ご両親を困らせるという話がございます。
たしかに、そのように人間の頭の中だけで
” どうして今、私がここに生きているのだろうか
” ということを解明するのは、おそらくできないのではないでしょうか。
一生懸命努力して、いかにこの人生を全うしていくべきなのかということは、人間同士の関係の中だけでは説明のつかないことではないかと思うことであります。
このように、いろいろのことを考えてみました時に、人間の力だけでは生きていくことのできない私であることが知らされ、同時にまた、阿弥陀如来のお慈悲によらなければ、この人生を全うすることができない私であるということを知らせていただくことでもあります。
その上で、ただお念仏を申す身になって、阿弥陀如来に救っていただくという浄土真宗の基本を理解し、そういう身になっていきたいと思うのであります。
昭和53年11月29日
浄土真宗本願寺派
大谷 光真 門主述
本願寺出版社刊 「願いに応える人生」より
(内容転用の場合は、本願寺出版社の了承をお取りください)