人間の願い ( 願いに応える人生 )  

 

一月(一九七九年)と申しましても、もう終わりに近づいて
おりまして、少し古い話題となりますが、お正月の新聞には、
日本の国民の半分近くになりましょうか、何千万人という人びとが、
神社に初詣に出かけた、という記事が出ておりました。

一人で何カ所も行く方もありましょうから、本当の人数は
はっきりいたしませんけれども、たいへん多くの方が神社に
お参りになったことは確かであります。



 そして、一人ひとりのこころの中を正しくおしはかることは
できませんが、何らかの形で、幸せを願って参拝されたこと
だろうと思うのであります。

よく、無病息災とか、家内安全、商売繁盛というようなことばが
使われておりますが、ふつう、そういうお参りは、こちらの願いを
神さまに聞いていただこう、聞き届けていただいて、ご利益を
期待している、とさえいえるのではないかと思うのであります。



 確かに、私たちは、家族の者が一年間重い病気にかからず、
また、大きな災難にあわずに過ごしたい、と願っております。

また、商売繁盛ということを拡大解釈いたしますならば、
仕事が立派に果たせるようでありたい、ということにもなりましょう。

それらは、みな願っていることであります。

人間として、この世に生きているほとんどすべての
人の願いでありましょう。

それ自体、決して悪いことではないし、当然のことで
あるかもしれません。



 しかし、それを、神さまにお願いして、そのむくいとして
期待しようというところには、浄土真宗の教えを仰ぎます
私たちには、少し問題になる点があると思われます。

といいますのも、そういう願いは、まず一つに、自らの努力、
心がけで果たしていかねばならないという面があるからであります。

と同時に、私たち人間の作っております社会では、いかに努力し、
いかに誠実につとめたとしても、必ずしも、その通りの成果が
得られるものではないわけでありますから、期待しない、
予期しない、望ましくない結果が表われたとしても、それをそのまま
受けとめられる心がまえということも、必要であると思います。



 いろいろな願いを持っておりますこと、それ自体は、たいへん
素晴らしいことであります。

しかし、その願いも、詳しく調べてみますと、さまざまなものが
あると思うのであります。

病気にかからないというのは、誰の迷惑にもならない、
まことに素晴らしいことでありますけれども、仕事がうまくいく、
商売が繁盛するということは、必ずしも、百パーセント素晴らしい
とは限らないわけであります。

すべての人が、そうなるような社会であれば、それは、美しいことで
ありますが、今日の競争社会の中で、私の仕事だけがうまくいくと
いうことは、当然、どこかに競争に敗れていく人びとのあることも
事実でありましょう。



 特に、この時期、多くの人びとの関心事であり、心配ごとで
あります学校の入学試験ということにつきましても、入れる人数が
限られているところに、その何倍もの希望者が競って入ろうと
するわけですから、当然、そこには入れない人も出てまいります。

それでも競争しなければならない世の中になっておりますから、
あくまでも自分の願いを通すということは、逆に、願いの通らない
人の出てくることを前提にしているということもいえるのであります。

そう考えますと、私の願いをどこまでも通すということにも、
一面、大きな問題が含まれていて、それだけでは完全とは
いえないということになります。



 また、今日、たいへん大きな問題であります世界平和と
いうことを考えましても、主義主張の違う国々がある中で、
一方の主張を通しますと、反対側の国の主張はおさえつけ
れらるということが、しばしばあるわけであります。

かつて、十年ぐらいにありますでしょうか、東南アジアの国々の中、
特にベトナムで内戦が起きまして、それにアメリカが関係して
多くの問題を起こしました。

私は、ちょうど、学生時代でありましたが、その問題に多くの
学生が関心をもち、平和を願って、アメリカ軍がベトナムから
出ていくようにと要求し行動した人もたくさんあったわけであります。

それぞれに理由はあることであり、そのこと自体のよしあしは
別にいたしますけれども、あの時期、アメリカが手をひくことに
よってベトナムに平和がもたらされると思い、それを願った多くの
人があったにもかかわらず、今日、またそのベトナムが、今度は
よその国まで軍隊を派遣いたしていると、新聞は報じておりました。

まことに理解しがたいことで、いい分は当然ありましょうが、
当惑している方がたくさんおられることだろうと思うことであります。



 こうした問題には、人間の考えの及ばないような深さがあるように
感じるのでありますが、かつては平和を願っていたはずのベトナムの
人びとが、今日、私たちには理解のできないような行動をとり始めた
ということで、私たちが本当に純粋な美しい願いというものを持ちうる
のだろうか、それが実現されるような願いを持つことができるのだろうか、
ということを考えさせられるのであります。

いわんや、そういう願いを、神や仏に願って、効果を期待しようと
いうことは、たいへん問題を含んだ願いではないかと思うのであります。



 親鸞聖人のお示しくださったみ教えは、そういう考えを
逆転して考える、さかさまにして考えるというふうにも
理解できるのではないでしょうか。

私たちが、神や仏に願って、私たちの願いを実現すると
いうことではなくて、仏さまの願いを私たちが聞かせて
いただいて、そのおこころに従って生きていく
というふうにも言うことができると思うのであります。

人間の限られた願いと違いまして、仏さまの願いは、
ふつう私たちは、本願、あるいは第十八願というようなことばで
いっております。

それは、私たちを救ってくださる願いでありますとともに、
私一人を救ってくださる願いではありません。

すべての生命あるものを等しく救おうとしてくださる
仏さまの願いであるというところにも、同時に大切な点が
あると思うのであります。

私だけが救われるということは、ともすれば、先ほど申しました
ような自分中心の救いになってしまうわけでありますが、
仏さまの願いはそうではなくて、すべての人が等しく救われて
ほしい、という願いであるのです。

その願いを正しく聞かせていただくことにより、私たちは、
限られた人生ではありますけれども、自分だけが救われる
という閉じこもった考えではなくて、ともに救われる、ともに手を
とり歩んでいくことができる、と味わわせていただけるのです。



 もちろん、人間の生死の問題、生命の問題は、私の力では
どうすることもできないものであります。

限られた人生、その長さはわかりませんけれども、いずれは
必ず寿命のつきる私の人生であります。

それ自体、どうすることもできないことでありますが、
それだからこそ、仏さまの願い、阿弥陀如来のご本願は、私たちを
救ってくださって、お浄土に生まれさせてくださるのであります。

そこに、いわゆる時間の上での寿命・生命を解決してくださる道が
あるわけでありまして、いつか必ず生命が終わるといたしましても、
永遠ともいいうる人生があるわけで、それと同時に、生命ある限りは、
み仏のおこころに包まれた人生を送らせていただけるということでも
あります。



 伝統的なことばでは、現生正定聚、あるいは平生業成という
ことばがあります。

皆さまも、よくお聞きになることだと思いますが、これは、
与えられたこの生命を精一杯生きていく、しかも、それは、
できる限り、そういうみ仏のおこころにそうような人生でありたい、
み仏のおこころに満たされた人生でありたいと思うことであります。

それが、この限りある世に生きていながらも、しかも、み仏の世界と
つながった人生、み仏のおこころに包まれた人生と味わうことが
できるわけであります。



 私たちは、そうしたみ仏の願いを、本当のおこころを、
南無阿弥陀仏として受けとらせていただくのみであります。

もちろん、南無阿弥陀仏を信じるとともに、それは、また、
口を通してお念仏を申させていただく人生になることです。



 親鸞聖人の 『 ご和讚 』 には、中国の善導大師を讃えられた
ものがありますが、その中に、 

 弘誓のちからをかむらずば


 いずれのときにか娑婆いでん

 仏恩ふかくおもいつつ

 つねに弥陀を念ずべし

という一首があります。


ある方の現代語訳によりますと、


 弥陀の本願力をこうむらないなら、いつのときこの娑婆を
 のがれることができよう。
 浄土往生の身となった今は、身のしあわせを喜び、ふかく仏恩を
 思って称名念仏をはげまねばならぬ。


と訳されております。

阿弥陀さまの願いは、また、誓いでもあります。
それをこうむることによってのみ、この限られた人間の世界に
生きつつも、その中で、み仏のおこころにそって精一杯努力する道が
開かれ、また生命終わった後には、み仏の国に生まれさせていただく
という道が開かれるのであります。



 私たちは、それをお念仏を通して味わわせていただき、
お念仏として喜ばせていただくことができるということでありましょう。

み仏のご本願を信じて念仏申す身にならせていただく、短く申しますと。
そういうことになるかと思います。

そのことを、一つひとつ、私たちの生活の上で、毎日の出来事の上で
味わわせていただく、それは、一人ひとりが味わうものであります
とともに、同じお念仏に結ばれた、み仏につながれた人生になって
いくのであります。



昭和54年1月27日 



  浄土真宗本願寺派 大谷 光真 門主述
    本願寺出版社刊 「願いに応える人生」より

 (内容転用の場合は、本願寺出版社の了承をお取りください)

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