生きることの意味
(願いに応える
人生)
今朝は、たいへん寒かったのですけれども、皆さまは、朝、目覚められて、床から起き上がられるとき、どのようなお気持ちでしたでしょうか。
私も、お晨朝のときは、遅れたら多くの方にたいへんご迷惑をかけるということで、緊張しておりまして、起きるのが辛いとか辛くないとか考える余裕もありませんけれども、もう少しゆっくりしておりますときに、冬の朝早く起き上がるのは、たいへん辛いとしみじみ思うことであります。
それぞれの体質にもよることかも知れませんが、私は、いろいろ世の中に辛いことがある中で、身体を通して感じる辛いことの一つに、冬の寒い朝、温かいふとんから出ることがあるように思います。
京都の場合、冬の厳しさとともに、夏の暑さも格別のものがありますが、人間が生きていることの辛さ、ことにお釈迦さまが「
人生は苦である 」 とおっしゃった背景には、インドという国の夏の暑さということも、一つにあったのではなかったか、と感じるようなときがございます。
それは、気候という、人間にとって外側のことを縁として、人生は苦であるというようなことを肌を通して感じることができるということですけれども、そうしたことを含めながら、少し自分自身を顧みるということを考えてみたいと思います。
宗祖・親鸞聖人は、もちろん、お念仏の教えを説いてくださったということで、私たちは、お慕いしているわけでありますけれども、特に今日、宗門外の方からも注目を浴びるようになってきましたことの一つに、聖人が自分自身を厳しくみつめていらっしゃったことがあげられ、そういう純粋に自分自身に厳しく対するという点に好感を持ち、憧れを抱く方が多いように思われます。
また、そうしたことを、私たち宗門の中で育ってきた者が、十分理解しているかどうか、ということも反省させられるわけですが、いま、自分自身を顧みるということを考える中で
『 大無量寿経 』 の中のおことばを手がかりにしてみたいと思います。
人、世間愛欲の中にありて、独り生じ独り死し、独り去り独り来たる。
まさに行いて苦楽の地にいたり趣くべし。
身自らこれに当る、代る者あることなし。
このおことばは、皆さまもよくご承知のことと思いますが、人間というものは、ふつう、社会のなかで、さまざまなつながいをもって生きておりますけれども、そのギリギリのところまでさかのぼってみますと、裸で生まれてきて、裸のままで死んでいくのだ、ということであります。
死という場面では、身につけているもの、外側からくっつけたものは、何一つもっていくことはできない、すべてこの世に残していかねばならない人生であることを、鋭く、また簡潔に教えてくださるおことばといえましょう。
私たちは、自分自身とは、いったいどんなものであろうか、ということを、なかなか上手に理解することができません。
単純に、私というものを考えますとき、まず思い浮かびますのが、私のもっております身体、手足、頭、胴というものでありますけれども、二本ある手が、片方なくなったとしても、人間としての私がなくなったわけでなく、人間であることに変わりはありません。
手足というものは、私に属しておりますけれどもそれがそのまま、私の全体だとはいえないわけであります。
また、私のもっておりますこころも、私自身のもののようでありながら、くるくると変わっていくということを思いますと、本当に私自身のこころであるかどうか、考えさせられます。
外から何らかの刺激を受けますと、すぐ変わってしまいますから、本当の私のこころはどこにあるかも定かでありません。
さらに、自分の社会的な地位、あるいは名誉、そしてまた財産といったものを、自分自身と取り違えるということが多いのではないかと思うことであります。
お金がたくさん貯まったから、他の人より偉くなった気がする、自分の方が上に立っているような気がする、ということがあったり、また、勲章をいただいて、社会的な地位や名誉が高まったといって、他の人より偉くなったなどと取り違えたりしますと、たいへんなことだと思うのであります。
とかく、私たちは、たまたま何かのご縁で外からつけ加わったもので、自分を評価したり、人を判断したりしがちであります。
その典型的なものが、服装でありましょう。
着ているものをみて、人間を判断するというわけです。
近ごろでは、だいぶんなくなったようですが、飲食店などでも、服装によって、お客さまを断ったりしたことがあったように聞いております。
そういったようなことは、本当のその人自身とは直接かかわりのない、外側についたもので、人間そのものを捉えようとしていることといえましょう。
あるいは、ときに世の中のしくみがそうなっているためでありましょうけれども、人間を、その人の持っている働きや特色でもって捉えようとする傾向が強くなっています。
歌が歌える人に対しては、レコード会社は、その歌えるという能力を買って、レコードを吹き込ませたり、舞台に立たせたり、ということで商売をする。
その会社は、歌い手の人間全体を認めているというよりも、単に歌が上手である、舞台に立ったとき美しくみえる、という人間全体からいえば一部分にしかすぎないところを高く評価して、使っているわけであります。
そういうふうにせざるをえない世の中であるとはいえ、会社が人を採用する場合には、どういう能力をもっているかということが、大きく影響してくる今日であります。
たとえ、どんなに美しいこころ、誠実なこころをもっていても、仕事をするという面での能力が欠けていれば、会社としては雇いたくない、ということになるわけです。
それが、単に、会社経営、企業経営という場面だけではなく、その外の社会にあって、人間同士がお付き合いをするという時点になっても、云々されてくるのであります。
親子の間でも、学校の成績がいいか悪いかということだけで、親が子どもを判断するというようなことが、最近、話題になっております。
人間を人間全体としてみつめることが、たいへん難しくなってしまっている、他の人をみる場合にもそうでありますし、もちろん、自分自身をみつめるということでも、また、難しくなってきていると思うのであります。
これは、今日の一つの大きな問題だと思います。
私たちは、何とかして自分の本当の姿をみつめたいと思うのであります。
これは、一つの手がかりにしか過ぎないと思いますけれども、時間の流れの上で、遠い過去からさかのぼって今日の私というものを考えることができると思います。
誰でも、親は二人、祖父母の代までなりますと四人、そのまた前までさかのぼりますと八人というぐあいに、多くの先祖のつながりの上に、今日の私がある、これは、生物学的な問題でありますけれども、また、社会の上で、日本の歴史の上で、地球全体の長い歴史の上で、いろいろな組み合わせの上に今日の私があるということを、ふだんはなかなか思いつきません。
また、そういう時間の上での問題と同時に、いまの時代だけに区切って考えましても、私たちは、いろいろなつながりの上に、いまこうして生きているわけです。
近くは家族の横のつながり、仕事の場での組織としてのつながり、あるいは、何か一つのものを買うにしても、それを作った人、それを運んだ人、また売る人、といろいろなしくみがこの世の中にはあるわけですが、そうしたしくみを通してのつながり、というふうに多くの横のつながりの上に、いまの私があります。
どれか一つが欠けても、おそらく今日のこうした私は、ここにいることはできないでありましょう。
そうした横のつながりという面をも、いろいろ考えることができると思います。
しかしながら、とかく、そうしたつながりの中にあることを忘れてしまって、自分ひとり生きているといふうに思ってしまうのが、私の姿であるように思います。
しかも、そういう因縁の上に成り立つ私でありますけれども、限られた人生を終えれば、例外なくこの世を去っていく人間であります。
そういう限られた人生の中で、本当に人間として生まれた意義を全うして生き、生命を終えさせていただくということは、たいへ大事なことだと思います。
それは、ただ単に、楽しく自分だけが満足して生命を終わるということではなくて、いろいろなつながりの上で、本当に意義ある人生であったと振り返ることができるかということで、人生という面を考えたいと思います。
広い意味で、充実した人生を送らせていただくことができるかいうことを考えたいと思うのであります。
それを考えるとき、私は、南無阿弥陀仏を依りどころにする以外に、本当の道はないと知らされるのであります。
『 お正信偈 』 の中にも
「 極重の悪人は、ただ仏を称すべし 」 −−
「 極重悪人唯称仏我亦在彼摂取中 」 という一節が出てまいりますが、
極めて重い悪人は、ただ仏を称すべし、つまり、それ以外に道は
ないということです。
もちろん、表現上、称する、仏のみ名をお称えするということばになっておりますが、広い意味でのお念仏ということです。
それはまた、信心を含めた意味でのお念仏ということであります。
これは、たいへん厳しいおことばでありますと同時に、そうすることを通して、私たちは、何か特別の難しい他の方法を用いるのではなくて、ただ阿弥陀仏におすがりし、そのお救いにおまかせするという、ただ一つの道を通して、私は本当の人生、み仏の世界に向かっての人生を歩ませていただくことができる、といふうに味わいたいのであります。
また、宗祖・親鸞聖人は 『 ご和讚 』 に、
生死の苦海
ほとりなし
ひさしくしずめる
われらをば
弥陀弘誓の
ふねのみぞ
のせてかならず
わたしける
と述べられています。
これは、七高僧のお一人、龍樹菩薩を讃えられたものの一首ですが、生まれて死んでいくという苦しみの海には、ほとりがない、つまり限りがない、長い間、永遠にと申しましょうか、迷いの世界に沈んでいる私たちを、阿弥陀さまのご本願の船のみが、乗せて渡してくださる、とおっしゃっておられます。
自分自身のほんとうの姿を十分に知ることができない私でありますけれども、お念仏をいただくことによって、自分の姿を知らせていただき、そして、また、それを通して、本当の人生を歩ませていただくことができる、と味わうことであります。
昭和54年
2月3日
浄土真宗本願寺派
大谷 光真 門主述
本願寺出版社刊
「願いに応える人生」より
(内容転用の場合は、本願寺出版社の了承をお取りください)