真実の依りどころ
(願いに応える人生)
どうして、お念仏の教え、浄土真宗の教えを聞かねばならないのか、聞かせていただけかねばならないのか、というようなことを、いろいろと考えてみるのですが、きょうは、そうした中からお話をさせていただきます。
ふつう、浄土真宗の教えに限らず、お釈迦さまがお説きになった仏教と申しますと、人生は無常である、ということが基本になっております。
生老病死という苦しみ、つまり、人間は生まれ、年老いて、あるいは病にかかり、最後には命を終える、ということが根本にありまして、すぐに無常であるということばが浮かんでくると思います。
皆さまも、仏教といえば、まず、そうしたことを頭の中に想像されるのではないでしょうか。
確かに、仏教の根本問題が、ここにあると思います。
ということは、逆に申しますと、無常である、常でない、いつまでも続くものでない、刻々と変わっていく、というのが、本当の姿でありますのに、私たちの生活は、あたかも、そうでないかのように過ごしているということが、その反対側にあるといえましょう。
ですから、ことさらに、諸行無常、あるいは生死無常という教えが説かれた、といえると思うのであります。
私たちは、明日もあさっても、いまの状態と同じように、元気で生活できるものと信じ込み、きょう一日を過ごしております。
もし、明日、何かたいへんなことが起こるようであれば、おそらく、こうして静かに座わっていらっしゃる方は、そう多くはないと思うのです。
そういうふうに、日常の一つひとつのことすべてを取り上げてみましても、明日があるから、あさってがあるからということで生きております。
そういうことで、きょうすべきことを明日に延ばすということも出てきて、きょうのつとめをおろそかにしてしまう、という場合があるかもしれません。
私たちは、明日がある、あさってもある、その次の日もあると思って、生活しているわけですが、実は、その確証はどこにもないわけであります。
つきつめて考えてみますと、本当は、頼りにならない明日の生活というものを頼りにして、生きているといえるでありましょう。
また、少し違った面から、同じことを考えてみましょう。明日の生命が知れないという、無常の人生を生きていながら、頼りにもならない明日を頼りにしている私たちは、ほかにも、本当は頼りにならないもの、頼るべきではないもの、そうしたものに頼って生きている、といえるのではないでしょうか。
特に、この二月、三月は、学校の入学試験の時期に当たっておりまして、つい先日も、宗門の関係学校である龍谷大学で合格発表があったばかりでありますけれども、話をうかがっていますと、数十年前の学生に比べて、今日の戦後生まれの私たちの年代は、本当に勉強がしたいという理由で学校に行っている者は、ごく少なくなってきているといわれておりますが、私自身も、そのように感じるこのごろです。
それでは、どうして、本当に勉強したいとも思わないのに、学校へ行かねばならないのか、行きたいのか。
それは、どうしても、どこそこの学校を卒業したという資格が欲しいからである、といえましょう。
そのために、少しでも良い資格、ラベルをもらうために、何とかして良い学校に入りたいと、競争が激しくなっているというわけであります。
それは、どうしてか、そういう資格をもっていれば、それ以後の人生で、何か得をするだろう、良いことがあるだろう、と考えるからでありましょう、実際、そうなることが少ない世の中であります。
必ずしも良いことではありませんが、今日の日本の社会にあっては、本人の実力とは別に、そういう学歴というものがものをいう形になっておりますから、こうした現象もやむをえない一面がありますけれども、学校で勉強するという根本にたち返って考えてみますと、まことに不純な動機であるといわねばなりません。
勉強というものを、そういう身を飾るための手段に利用している、頼っているということでありましょう。
そういう私たちのあり方は、どうなるのでありましょうか。
何を学び、何を身につけることが大事なのか、ということを考えることが大切なのに、外側の名前だけに頼って生きている、という私たちであります。
あるいは、また、皆さま方のご家庭でも、そういうことをお考えになる場合が多いかとも思いますが、結婚という人生のたいへん大きな一つの節目に当たりまして、相手を選ぶときに、どういうことを基準にしていらっしゃいますでしょうか。
戦後は、個人の自由が法律の上で保障されまして、結婚する当人同士の愛情ということが基本にある、ということは十分に徹底されてはおります。
けれども、実際問題となりますと、それ以外のものに、はなはだ理屈にあわないようなものに頼って、相手がふさわしいとか、ふさわしくないという選び方をしているのが、現状ではないかと思うのであります。
人間自身の値打ちとは別に、外側を包んでおります、いろいろな飾りものを基準にして、配偶者を選んでみたり、まさに人生の一大事を決する際に、頼るべきでないものに頼って方向を決定してみたり、というのが私たちの姿ではないでしょうか。
日常生活の上での私たちの姿は、そのようなものであるのですが、仏教の教えの中にありましても、何に頼るかということが大きな問題となってまいります。
いわゆる聖道門と私たちが呼んでおります教えは、戒律を厳格に守り、厳しい修行を行って、仏になろうという教えでありますが、そうした仏道にあっては、修行をして自らを磨き、それを頼りにして真実に至ろうということでありましょう。
ですから、自分の守ってきた戒律、自分の修行というものに基づいて悟りを開こうという意味から、自力という姿を呈してくるわけです。
そして出家であるお坊さん以外の者はといいますと、戒律を守り修行を行うということはしないまでも、自分でつくり上げたいろいろなものに頼って、幸福を求める毎日を送っています。
このような生き方は、仏教の教え、ことに阿弥陀如来の教えに照らしてみますと、大きな問題をはらんだ人生である、といえるでありましょう。
そういった人間のあり方に対して、阿弥陀如来からいただく南無阿弥陀仏ただひとつを依りどころにして、人生を生きていくことを説くのが浄土真宗の教えであります。
阿弥陀如来からいただく南無阿弥陀仏のお名号には、阿弥陀如来のすべてのおこころ、限りない慈悲と智慧が含まれています。
この南無阿弥陀仏を私たちが仰がせていただき、称えさせていただくことを通して、阿弥陀如来の本当のおこころにふれさせていただくことができるのであります。
今日、他力本願ということばが、たいへん誤解を招いておりますけれども、本当に頼るべきものに頼って生きる人生と、頼るべきでないもの、頼りにならないものに頼って生きる人生には、大きな隔たりがあることを知らせていただくことが大切であります。
その教えから、阿弥陀如来のご本願にすべてをおまかせする、すなわち阿弥陀如来を信ずるというこころは、私が信じていると思う状態にあっては、実は、本当の頼りとなるものではない、ということを知らされるのです。
そういう私のこころというものをも超えた、阿弥陀如来のほんとうのおこころのみが、真実の依りどころとなるというところに、他力の信心のほんとうの意味があるのだと思います。
最後に、親鸞聖人の 『 ご和讚 』 を拝読いたしまして、そのあたりを味わわせていただきたいと思います。
この 『 ご和讚 』 は、七高僧のお一人であります、中国の善導大師を讃えていらっしゃるものの一首であります。
煩悩具足と
信知して
本願力に
乗ずれば
すなわち穢身
すてはてて
法性常楽
証せしむ
ちょっと、専門的なことばが続いておりますので、ある方の現代語訳を参考にして紹介してみますと、 私は、ただ煩悩具足の凡夫であると自覚し、このような者を 救うてくださるのは、阿弥陀如来よりほかにないと、ひたすら 本願力に乗託すれば、煩悩にまみれたこの身を捨てはてて、 常楽涅槃の悟りを開かせてもらうのである。
というふうに訳していらっしゃいますが、頼るべきものをもたぬ私が、真実の阿弥陀如来のご本願におまかせして、救われていくのである、ということであります。
その阿弥陀如来のご本願の尊さを讃えていらっしゃるのが、この
『 ご和讚 』 であります。
昭和54年 3月 7日
浄土真宗本願寺派
大谷 光真 門主述
本願寺出版社刊
「願いに応える人生」より
(内容転用の場合は、本願寺出版社の了承をお取りください)