今日、仏教の教えは、ただ単に、インドから日本までの東洋の
国々だけではなくて、西洋の国々にもたいへん関心を持たれております。
そういった今まで伝わっていなかった国も含めて、仏教は、世界的な
問題、人類全体の精神の文化として認められつつある、また、
その役割が注目されてきているということが言えるわけでありますが、
現在までのところ、そういう海外の様子を聞いたところによりますと、
どうも日本の関係では、禅の仏教、禅宗がたいへん注目をあびて
いるようであります。
もちろん、浄土真宗も日本から南北両アメリカへ移住され方々を
中心に基盤を持っておりますけれども、そういった民族の壁を越えた
広い意味での伝統ということでは、今までのところ、それほど
目立った動きにはなっていません。
それに比べて禅の方は、それがいつまで続くかという将来のことは
別でありますが、今日のところではたいへん目立っております。
おそらく、キリスト教が徹底しております西洋の社会で、
むしろキリスト教とは全く異質な、あるいは面倒なことばの
障害すらなく、ただ “ 座わる ” ことによって身心の統一を
はかるということ受け入れられているのは、現代および現代人に
欠けている問題に対して、何か新しい手がかりを与えるというふうに
受けとめられているのではないかと見られるわけです。
そういうような点と対比いたしまして、私たちの浄土真宗には、
そういった精神統一をするような行もなければ、厳しい戒律もないと
いうことで、ちょっと手がかりに困難を感じる方が多いのではないかと
感じるのでありますが、その点について、少し私の感想を申したいと
思います。
確かに、浄土真宗では、悟りを開くための行、あるいは戒律と
いったものは、何もありません。
必要がないというのでありますが、私たちは、何もしなくても
済むわけではないのであります。
強いて “ 行 ” というのではありませんけれども ” 行 “ に
代わるものを考えてみますと、私たちにとっては、何といっても
「 聞法 」 ということが、根本でなければなりません。
仏法を聞くということであります。
いろいろな形の上では、ご法話を聞くことも、あるいはお聖教を
拝読することも、また話し合いをすることも、すべてが、み仏の
救いを聞かせていただくということであります。
けれども、ただ、 「 聞く 」 ということも、なかなかやさしいこととは
いえないわけであります。
親鸞聖人がおっしゃったような本当の聞き方−ー
「 聞というは、衆生、仏願の生起本末を聞いて、疑心あることなし
」
というおことばがありますが、聞くことがそのまま信ずることである、
仏さまの仰せを信ずることであるという聞き方は、なかなか容易に
できることではないように思います。
最初の形の上では、私の耳で聞くわけでありますけれども、
そういうことを通して、阿弥陀如来のお慈悲が聞こえてくる、
こちらから聞くというよりも聞こえてくることになるのであります。
聞いている形の上では、私の耳で聞いているわけでありましょうが、
そこに真実が聞こえてくる、そういう聞き方が
「 聞法 」 「 聴聞 」 と
いうことであろう、と思うのであります。
と申しますのは、ふつう、私たちは、いろいろなものを見たり
聞いたりいたしますが、それをそのまま正しく受けとることは、
なかなか困難なことであります。
自分の興味あること、関心のあること、利害にかかわることは、
よく聞こえますし、よく見えますけれども、関心のないことは、
目にとまらないで通り過ぎてしまいます。
毎朝、配達されます新聞をめくって見出しを見ましても、おそらく、
十人が十人とも、違う記事を見つけ出して読んでいるでありましょう。
私などは、経済欄はほとんど目にとまらないで、次のページに
行ってしまいます。
逆に、そういう職業にたずさわっていらっしゃる方は、下の方の
小さな見出しで出ている記事でも、スッと目に入ってくるでありましょう。
これが当然のことであります。全部、最初から最後まで目を
通すことができないとすれば、自分にかかわりのあるところが
自然に目に入ってくる、そういうふうにして、私たちは、毎日の生活を
送っているわけであります。
しかし、仏さまのお話しを聞かせていただく場合、それは同時に、
私自身の生命の根本を、人生の根本を聞かせていただくことにも
なるわけであります。
そういった問題は、自分の都合のいいところだけを抜き出して
つないでも、これは本当の聞き方にはなりません。
仏さまのおっしゃること、如来さまのお声が、そっくりそのまま耳に
入って来なければならないのであります。
そういう聞き方、それは、簡単にはできない、難しい問題を持って
いるように思われます。
しかしながら、また、そうであるからこそ、本当の教えを聞かなければ
ならない私たちであるということを思うのであります。
阿弥陀さまの真実、南無阿弥陀仏のおいわれを本当の意味で
聞かせていただくことが、聞法でありましょうし、それが人生の根本を
解決するということであります。
もう一つ、見方を変えまして、私たちは、難しい修行をしたり、
戒律を守ったりしなくてもいいということの裏がえしとして、ことさらに
行に励まなくても、毎日の生活が、それに代わる大切な意味を
もっている、というふうにも受けとれることかと思うのであります。
ふつうの浄土真宗のことばで申しますと、報恩感謝の行、報恩行
といういい方もありますけれども、そういうみ仏のおこころに
従うような生活をしようといたしますと、たいへん難しいことで
あることが知られるのであります。
先ほどもうしました禅宗などには、“ 公案 ” というものが
ありまして、師匠と弟子が一対一で向きあい、先生から難しい
問題を出されて、それをいただいて帰って、一生懸命考えて
答えを出すということが行われております。
しかし、私たちとしては、ことさらに、そういう難しい問題を先生の
所へ行って頂戴してこなくても、きょう、ここで起こる問題、家庭で
起こる問題の一つひとつを、真剣に考えてみますと、どれもこれも
たいへん大きな問題であります。
私ひとりで解決できる問題もありましょうし、少人数の者だけでは
どうにもならないこともある、また政治の力に頼らなければならない
こともある、あるいは人間の力ではとても解決できない問題もある、
いろいろな問題があることを感じさせられるわけであります。
極端なことを考えてみますと、人間の生命には限りがあります。
しかも、私たちは、いつまでも生きていたいし、また、親しい人には、
いつまでも生きていてほしいと、そういう願いをもっております。
これは、明らかに矛盾したことであります。生命は、医学が進歩
すれば、少しはのばすことができますが、全然、死なないように
することはできません。そういう根本問題があるわけであります。
親鸞聖人が 「 罪悪深重の凡夫 」 とおっしゃった意味は、法律上
の罪、倫理・道徳に反する罪ということだけではなくて、正しいと皆が
思っているようなことでも、見方を変え、立場を変えますと、
たいへんな間違いである場合がしばしばあることであります。
これは、善意、好意で行ったことが、しばしば逆の結果を引き起こす
という意味で、当人にとってはまことにやりきれないことであります
けれども、そこにも、人生の難しさ、人間のもっております難しさを
知らせていただくことができると思います。
そういうことをたどってみますと、人間というものは、やはり、
限られたものである、自分自身を完全にとらえることもできなければ、
自分のまわり、外側をも正しく見ることもできない存在であります。
先ほど申しましたように、ごくごく限られた、自分にとって都合の
いい面だけを見て、かろうじて毎日を生きている、こころの安らぎを
得ているつもりで生きている、というのが人間でありましょう。
そういう人間の有限性、限られたものであるということを自覚する
ところに、阿弥陀如来の限りないお慈悲を仰いで生きていく喜びを、
常に味わわせていただくことができるのであります。
私たちは、そういう意味で、阿弥陀如来のおこころをお念仏として、
南無阿弥陀仏として受けとらせていただき、この世の困難な問題に、
今できるかぎりの力を尽くしたいと思うことであります。
最後に、親鸞聖人のおことばでありますが、もっとも親鸞聖人が
力を入れられ、時間をかけておまとめになった
『 教行信証 』 の
最初のところに、
ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、
無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。
というおことばがございます。
ひそかに考えてみれば、はかり知ることのできない
阿弥陀如来のご本願の力は、波が高く風が強くて
渡りがたい海を渡る大きな船であり、さまたげのない
阿弥陀如来の光は、私たちの煩悩におおわれた闇を
破ってくださる智慧の光であるーー
というおことばでありますが、私たちの人生そのものを縁として、
阿弥陀如来のお慈悲を仰がせていただくところに、ことさら難しい
修行や戒律を実践することがなくても、自ら身を正した人生を
送らせていただくのである、と受けとりたいのであります。
昭和54年 3月17日
(内容転用の場合は、本願寺出版社の了承をお取りください)