謙虚で美しいこころ
(願いに応える人生)
お『正信偈』の中に、
天親菩薩造論説
帰命無碍光如来
依修多羅顕真実
光闡横超大誓願
広由本願力廻向
為度群生彰一心
という、天親菩薩のお徳を讃えていらっしゃるところがございます。
天親菩薩は、七高僧のお一人で、インドのたいへん有名な、すぐれた方でありますが、親鸞聖人は、この天親菩薩を讃えられて、無碍光如来に帰命したてまつる、修多羅によって真実を顕して、横超の大誓願を光闡す。広く本願力の廻向によって群生を度せんがために、一心を彰す。
とおっしゃっているのであります。
ここに、広く本願力の廻向によって、私たち群生、すなわち、生きとし生けるものを救うために、一心・・ 一つのこころをあらわすとあります。これは、天親菩薩が、
世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来
と述べられたことに基づくのでありますが、この一心・・
一つのこころということは、浄土真宗の根本であるわけです。
ふつう、信心ということばを使っておりますが、それを、一心、一つのこころと表現されているのであります。
それは、いろいろな混じりものの入った心ではなくて、ただひたすら阿弥陀如来におまかせする、阿弥陀如来に帰命するこころでなければならないのです。
もちろん、それは、私自身が作り出すことのできるようなこころではありません。
「 本願力の廻向によって」とおっしゃっておりますように、阿弥陀如来から与えられた、廻向されたおこころであるというところに、浄土真宗の特色があるわけであります。
そういうことを念頭におきながら、私自身のこころ、人間のふつうのこころを、少し振り返ってみたいと思うのです。
人間のこころは、コロコロと変わるからこころである、とよく言われますように、まことにあてにならないもの、頼りにならないものといえましょう。
「 何とかごころと秋の空」と申しますけれども、決して男女の区別があるような問題ではなくて、人間そのものの持っているこころの姿が問題なのであります。
もっとも典型的なのは、こうしてお寺の本堂にお参りをしている時であります。
私たちは、非常にこころ穏やかになりまして、素直に仏さまに向かって礼拝することもできます。
日頃は、忙しい生活をおくっていらっしゃる方も、この時ばかりは、非常に穏やかなこころで、こころ静かに座っていただくことができるのでありまして、これは、お寺のもっているたいへんありがたい点だと思うわけです。
しかし、人間の人生は、そういう平穏な時ばかりではありません。
いろいろな問題にぶつかりますと、日頃おとなしい人間であっても、人柄が変わってしまったかのようになってしまうのが、人間でありましょう。
よく言われますように、日頃は穏やかな紳士と思われるような人が、ひとたび自動車を運転しますと、非常に荒っぽい運転をすることがあります。
歩いている人を邪魔もの扱いにして、警笛を鳴らして追い散らしていく、そんな姿がしばしば見られるのです。
ほんの少し、座っている場所、環境が変わっただけで、大きく変わってしまうのであります。
特に深刻なのは、もっと大きな事件にでくわした時でありましょう。
天災、地変、あるいは人間の起こします戦争といった非常の場合に、隠されていた人間の姿があらわれてくるように思われます。
関東大震災の時のことを後に記録したものの中に、本願寺の関係で震災物語といったものがまとめてございまして、先日、それに目を通す機会がありました。
それは、震災という非常事態に際して、美しいこころで救助活動に従事された方たちの美談を広いあげた小冊子でありました。
そういう非常事態にも、美しい行為を行うことのできる人がおられたわけでありますけれども、逆に申しますと、そういうことが、ことさら取りあげられるほど、多くのものは、我を忘れて、とんでもないことをしてしまったのかも知れないのです。
そういった場面に出くわした時に、私は、いったい、どういう行為をするだろうかと考えますと、まことに恐ろしくなります。
日頃、体裁をつくろっているだけに、そういった事態に直面して、自分の本心をさらけ出さなければならない悲しさは、より大きいものがあるのではないかと思います。
この悲しい人間の本当の姿を、親鸞聖人は、
さるべき業縁のもよおさば、いかなるふるまいもすべし。
とおっしゃっておりますが、人間の本当の姿を、鋭く見通していらっしゃるおことばであると、こころを打たれるのであります。
何かの縁によって、日頃は考えてもいなかった、そんなはずではない私が、どんなことをもしかねないのであります。
そういう意味で、人間のこころというものは、あてにもならない、頼りにもならないものであることが、知られるのであります。
それは、ある意味で、動物として、生物として自分自身を守りたいという本能に基づいているからかも知れません。
そういうことを考えます時に、日頃は、人間同士で社会を構成し、そのこころがつながっているつもりでありましても、実は、それだけでは、本当の人間社会を作っていくことはできないということが言えるのではないかと思います。
そこで、そういった自分の都合だけでコロコロと変わってしまうこころを頼りにするのではなくて
「 仏心とは大慈悲これなり 」というおことばにもありますように、仏さまの大慈悲心、無差別、平等のおこころの中に包まれていることを知らしめられ、それを私のこころにいただくというところに、本当の人間としての生き方があると思うのであります。
それは、ある意味で、自分自身のふさがれた、閉ざされたこころを、外からの光りによって開いてくださることでもある、とも言えましょう。
ふつう、私たちは、自分のことは自分が一番よく知っている、あるいは、自分が専門的に究めた道については、素人の方よりもよく知っていると、そう思っております。
しかし、そういった道を本当に究めた方、日本で五人や十人に数えられるような専門的に深く道を究められた方は、その道の深いこと、広いことが明らかになって、かえって謙虚なこころをもっていらっしゃることを、よく知らされるのであります。
私たちが何でも知っておられると思います偉大な科学者が、かえって、自然の世界の不思議さに非常に謙虚に向かっていらっしゃることを知らされることが多いのです。
そういったことを考えますと、実は本当の姿を知れば知るほど、人間は謙虚になってくる、自分のこころの至らなさを知らされることができるということになるのではないかと思うます。
私たちも、いわゆる知識を深め、広げていくということでは、それぞれの専門家にはかなわないわけでありますけれども、人間の本当の生き方、人間の真実というものを求めていきます上では、阿弥陀如来の真実のおこころに気づかせていただくことによって、ますます深く人間の本当の姿に触れられるようになるのであります。
それは、自分自身が本当の依りどころにはならないものである、至らないものであることを知らされることでもあります。
親鸞聖人は、ご自身、あれだけ素晴らしい能力と経験を重ねていらっしゃったのでありますけれども、自ら愚禿とおっしゃっております。
自ら、愚かーおろかという言葉で表現していらっしゃる、それは、まさに、人生の真実を追求されたからこそ明らかになった、ご自身の自覚であろうと思うのであります。
私たちは、ともすれば、逆に、自分のことは何でも知っていると思って、かえって真実にこころを閉ざしてしまうことが多いのでありますが、親鸞聖人のお姿に学びます時、本当のことを知れば知るほど、自分は真実に近づきえない存在であることを知らされてまいるのであります。
自分のこころに、何一つ真実が含まれていないということを知らされますことが、阿弥陀如来の絶対の真実、無条件のおこころをそのまま受け入れさせていただくことのできるこころが開かれてくるということでありましょう。
自分がすべての中心であるとして、自分のこころを閉ざしてしまうか、あるいは、自分自身の中には、なんら依るべきものがないことを自覚して、こころを開いて阿弥陀如来のおこころをいただくか、これら二つの生き方は、人生の上でも大きな違いを引き起こしていくと思われます。
そういう意味で、私たちは、ちょうど表現は逆のようになりますけれども、自らのこころを阿弥陀如来の真実のおこころで満たしていただく、真実のおこころに向かって広くこころを開くことができれば、それがおのずから毎日の生活の上でも、謙虚な美しい人間関係が育っていくよりどころになるのでありましょう。
つまり、私たちは、阿弥陀如来のお慈悲に包まれた中であってこそ、初めて人間同士の関係、横のつながり、社会的人間関係をも改善していく依りどころがえられると思うことであります。
昭和54年6月6日
浄土真宗本願寺派
大谷 光真 門主述
本願寺出版社刊
「願いに応える人生」より
(内容転用の場合は、本願寺出版社の了承をお取りください)