宗名 「浄土真宗 」に思う
(願いに応える人生)
皆さまもよく知っておられると思いますが、蓮如上人がお作りになった
『 御文章 』 の一帖目第十五通に 「 宗名の章
」 と申しまして、浄土真宗という名前について蓮如上人がお書きくださったものがございます。
原文は、また、あらためて拝聴していただきたいと思いますが、最初の方の要点をちょっと申します。
問答の形になっておりますが、今から五百年近く前、蓮如上人の時代に、当時の人たちは、私達の宗門のことを「
一向宗 」 と名づけて呼んでおりました。
そこで、それはどういうことでございますか、と蓮如上人にお尋ねしたのです。
一向とは、一つに向かうという字でありますが、一心一向と
いうように、ひたすら法に向かってという気持ちでありましょう。
浄土真宗という正式の名前があるにもかかわらず、一向宗と呼んでいたことについて、蓮如上人は、たいへん行きとどいたお答えをしてくださっています。
私たちの流れを一向宗と名乗るのは、特に祖師聖人がお定めになったことではありません。
私たちは、阿弥陀如来一仏を頼みにし、他の仏さまや神さまに頼ったりすることがないから、一向宗と呼ばれるのでしょう。
確かに 『 大経 』 のご文の中に「一向専念無量寿仏」と、ひたすら無量寿仏を念ずるというおことばがあって、そこから一向ということばも出ているから、理由のないわけではありません。
このような説明がありました後、親鸞聖人は、この宗を浄土真宗とお定めになったのである。
ですから、私たちは自分から一向宗と呼ばないで、浄土真宗というべきであろう。というのは、お浄土に生まれようという願いをもった人びとの中にも、例えば、お念仏をたくさん称えたり、それだけでは足りずにいろいろの行をまじえる雑行の考えを持った人びともいる。
そういうことと区別して、ただ浄土宗ではなくて、浄土の真実の教えというふうにおっしゃっているのであって、そこに特別に“真”の字をお書きになったわけがあります。
あとにも続いていきますが、宗名について
『 御文章 』 では、大体こういう主旨をのべておられるのであります。
今日、宗門の現状をながめます時、このような問題がすこしあいまいになってきているような気がいたします。
そういったことを考えつつ、もう少し具体的に考えてみたいと思います。
中学生、高校生ぐらいのご子弟を持っていらっしゃる方は、よくご存知のことと思いますが、入学試験を受けます時、私立の学校では専願とか併願という言葉を使っております。
受験する生徒の側から申しますと、小学校六年になると、あるいは最近では高校進学率も高くなっておりますので、中学三年の時には、卒業後の進学のことを考えなければなりません。
一つの学校の試験に落ちても、代わりにどこかへ入学しなければならないというので、二つ三つ受ける方もあります。
しかし、反対に、入学者を迎える学校の立場になりますと、こちらへ入りたいといって試験を受けて合格しておきながら、やっぱりもっといいところへ代わりますと行ってしまわれたのでは、おもしろくないはずです。
また、二つ三つ受けた中で、順位をつけまして、一番入りたいところには入れなかったので、しぶしぶこの学校へ来たんで、初めからここが好きで入学したんではないというような気持ちで生徒が来ますと、教える先生方もたいへんご苦労なさるわけであります。
しかし、最近では、他の学校のことは考えておらず、この学校だけを受験しますからぜひ入れてくださいという生徒に対して、それなら優先して入学を認めましょう、という考えが強くなっているようです。
そのように、ひたすらこの学校に入りたいといってはいってくる人と、二つも三つも受けて、他は全部落ちたからしぶしぶここへ入ってきたんだという人の間には、当然、こころ構えが違ってまいります。
また、私が申すよりも、皆さんの方がよくご承知のことと思いますが、例えば、学校を卒業して会社に就職する際、こちらの会社にぜひ私を採用してくださいといいながら、別の会社でもぜひ採用してくださいと言いっておいて、両方で採用許可が出たら二つとも勤務することができませんので、どちらか一つをやめることになります。
しかし、採用する側としては、ぜひにといって頼みに来ながら、それを棄てて他の会社へ行ってしまうのでは、はなはだ不都合であります。
このことは、みなさまもそれぞれの立場でお感じになることが
あると思います。
そのように、人間というものは、いろいろな欲望を持っておりまして、あれこれとよしあしの順位をつけまして、自分はよりよいところに行きたいという、こちらが選んでいこうという考え方をふつう持っています。
そのよしあしは、ここでは論じませんけれども、入学や就職といった問題をもう一歩超えた、生死という人生の根本問題となりますと、あっちとこっちと比べて都合のいい方を取ろうというような甘い考え方では解決しない問題である、といえるのではないでしょうか。
私にとって、今ここに一回だけ与えられた生命の尊さというものは、あれこれ比較できないような絶対的な尊さなのであります。
そういう問題は、実は、私たちの側から、あれこれ考えて順番をつけたり選んだりという問題ではないのです。
従来から、“先手をかけて”というような言葉がよく使われておりますが、私のはからいを超えて、阿弥陀如来のご本願にすべてをお任せするところに、人生の根本問題、生命の根本問題の解決が与えられるのであります。
もう一つ具体的な話になりますが、宗門で
『 大乗 』 という月刊雑誌を出しております。
ご門徒の中で読んでくださっている方がたくさんおありであると聞いておりますが、今月号(六月号)に、たまたま、いま言いましたことに関連しまして、内容の豊かな、また味わいの深い話が出ておりました。
「 念仏の力 」 という題で、山陰の方でしょうか、ある信仰のあついお同行の方のことが書いてあったのです。
そのお同行は、病気にかかられ、長い間、療養生活をされていたそうです。
すぐに治る病気であったなら、希望をもって生きていくことができるわけでありますが、数十年前のこととて、結核になれば簡単に治らないという時代であります。
そのお同行と同室の人のところに、ある新興宗教と申しますか、祈祷やいのりによって病気を治してあげましょうという人が、せっせと通ってくるそうです。
そうした中にあって、一人の念仏者が難しい理屈を超えて、祈祷などの誘いにのらず、お念仏一筋の道を歩んでいかれたという話が書かれておりました。
平常、特別に難しい問題に直面しておりません時は、私たちは、なるほど、あんなお祈りなんかは、科学的な考え方に反するからつまらない。
バカバカしい、役に立つものかと思っています。
しかし、この方のように結核にかかられ、よく効く薬もなく、病状は一進一退で、さらに治るか治らないのかさえもわからない、というような生命の根本にかかわる不安な状態に陥った時にも、果たしてそんなお祈りはバカバカしいものだといえるでしょうか。
そうなると、たいへん深刻な問題になりまして、平素お念仏を喜ばせていただいておるつもりの私たちも、素直に自らを振り返ってみる必要があることと思います。
そういうことを考えます時に、実は阿弥陀如来の広いおこころが深く味わわれるのであります。
なぜなら、如来は、そういう人生における根本的な苦悩に直面する時、科学的な考え方に反するようなものにも頼りたくなる迷いをもった人間のこころを、暖かく包んでくださっているからであります。
というよりも、むしろ、そういう私たちであるからこそ、阿弥陀如来のご本願がたてられた、というべきでありましょう。
この阿弥陀如来にすべてをおまかせしていく時、私のこころは阿弥陀如来のおこころによって十分満たされるのであります。
「 念仏者は無碍の一道なり 」 と親鸞聖人がおっしゃってような力強い道が開けるのです。
腕力や声が大きいといった見かけの力強さではなく、病を得て苦しんでいる年取った婦人のこころをもしっかりと支えるような、そういう力強さで、阿弥陀如来が私たちをいつも包んでくださっているからであります。
今日、ともすれば世の中の厳しい動きの中で、本当のこころを失いがちな私たちであります。
蓮如上人の時代に 「 一向宗 」 という呼び名が起こり、普及してきたことを尋ねつつ、私の歩みを振り返らせていただきたいと思うことであります。
昭和54年6月 20日
浄土真宗本願寺派
大谷 光真 門主述
本願寺出版社刊
「願いに応える人生」より
(内容転用の場合は、本願寺出版社の了承をお取りください)