問いをもって聞く ( 願いに応える人生 )



 浄土真宗において、聴聞・聞法ということが大事な点であることは
申すまでもありません。

また、宗門の基幹運動の一つであります門信徒会運動の中でも、
全員聞法・全員伝道ということで、聴聞に重点が置かれております
ことは、ご承知の通りであります。

そういうことに関連しまして、少し考えてみたいと思います。



 昔から聴聞の大切なことはいわれておりまして、いまさら
申すまでもないことであります。

しかし、そのことばが昔の方が受け取っておられたと同じようには
受け取られなくなっているという現代の移り変わりがありますので、
同じことばでも、あらためて味わってみることにも、それなりの理由が
あると思うのであります。



 聞くということは、仏教読みにしまして“もん”とよんでおります。
新聞の聞という漢字、この聞くにはいろいろな意味を含んでおります。

音楽を聞くというように、ただ音が耳に聞こえてくるのも聞くことであります。
また、きき酒などということばがありますが、お酒の味、香りをいろいろ
確かめるという場合にも、きくという言葉が使われております。

そういった一つとして、道を聞くといった例を考えてみますと、これは
明らかにこちらにわからない目的地に至る道を知りたいという
はっきりした理由があって、通りすがりの方にお尋ねをする
ということであります。

そのように聞くという場合でも、こちらから何か問題をもっていって、
それに対して答えを引き出そうということも、聞くことの一つです。 


 今日、私たちにとって、そういった面の問をもつということも、
聞法の中に含めていいのではないでしょうか。

こちらのはからいをこえたところに、真実の信心があるわけですから、
そういったことを手がかりとして、真実の教えを聞かせていただく
入り口の段階として、これから考えてみたいと思います。



 今日の言葉でいえば、問題意識をもつということでありましょう。
例えば具体的な例として考えられますことは、宗祖・親鸞聖人の
お若い時のことです。

二十年に及ぶ比叡山でのご修行におこころが満たされず、
あれこれと悩んでいらっしゃった時、京都の町でお念仏の教えを
説いていらっしゃった法然上人のもとに、三カ月以上になりますが、
百日間お通いになられました。

これは『恵信尼文書』その他にも伝えられていますように、
天気のいい日も雨の降る日も続けて通われ、疑問の点を
お確かめになったのです。

しかし、伝えられるところによりますと、法然上人は、念仏するものは
阿弥陀如来に助けられて生死の苦からのがれるということだけを
繰り返し繰り返しおっしゃったと思われますが、親鸞聖人は、
そうした同じお話を百日続けてお聞きになったのでしょう。



 しかし、ここで百日かかってお聞きになったという重い事実の
中から、私たちに訴えてくださる大きな力を、私は感じるのであります。

と申しますのは、連続でなく、何日おきかということにいたしましても、
百日の間、聴聞を続けるということは、大変なことであります。

特に、毎日、忙しい仕事をもっていらっしゃる方が、その中から
百回お寺にお参りして聴聞なさるのに何年かかるかということを
お考えいただければ、それがいかにたいへんなことであるか
わかるわけであります。

聖人でさえ百日かかったことを考えますと、条件が違うと
いたしましても、私たちがそれだけの真剣な問い、問題意識を
もっているかどうか、あらためて考えさせられることであります。



 そのような例は、経典の中にもよくでてまいります。

例えば、最初に目につきますのは、私たちが一番よりどころと
いたします 『 大無量寿経 』 。

その初めの方にお釈迦さまのお弟子であります阿難尊者が、
お釈迦さまに問を出すところがでております。

五徳瑞現といわれている部分ですが、日頃、お釈迦さまの
身の回わりをお世話している阿難尊者が、ある日、突然、
いつものお姿とは違うということに気がつきまして、
「 きょうは、どうして、お釈迦さまのお姿が、このように光り輝いて
いらっしゃるのですか 」 とお尋ねします。

それに対して、お釈迦さまも「いいことを聞いた」と答えられております。



 それは、阿難尊者自身が、お釈迦さまの真実の教えを聞かせて
いただく機縁が熟した、ちょうどその時が来たということでありましょう。

お釈迦さまは、その時 『 大無量寿経 』 として、お念仏の教えを
説いてくださることになったわけであります。

ここにも、阿難が日頃から真剣にお釈迦さまのお話を聞いていた
からこそ、いつもとは違うお姿を見のがさなかったのでありましょう。



 もう一つの例として挙げたいと思いますのは、妙好人・因幡の
源左同行のことであります。

昭和五年に亡くなられておりますので、私たちと共通な時代を
もっておられるという点で、特に身近に感じるわけです。

そして、ことしがちょうど五十回忌に当たりますので、
それを記念いたしまして、日頃からお世話になっておりましたお寺で、
法要や記念の行事などが営まれたわけであります。



 この源左さんが十八歳の時、まだ働きざかりであった父親が
伝染病で急死いたしました。

今日であれば助かったでありましょうが、前日まで元気で働いて
おりました父親が、突然、病気をして、にわかに生命を失って
しまったわけです。

しかし、遺言のような形で、息子の源左に向かいまして
「 おらが死んだら親さまを頼め 」 と言い残したのであります。

もちろん、十八歳の青年・源左にとって 「 親さまを頼め 」 と
言われましても、そのことば以上の本当のこころは、いっこうに
理解できなかったのでありましょう。

しかし、遺言のような形で残された父親の偽りのない真実で、
端的なことばですから、源左のこころに深く焼きついたのは
もちろんでしょう。



 その真実の意味をめぐって、源左は、長い間、聴聞の日々を
送るのであります。

記録によりますと、まだ汽車も何もない時代に、京都まで
わざわざ出かけて来て、高名な学者さん、その他いろいろの
人びとを訪ねて、疑問の点を質していったといわれております。

そういったことを積み重ねたうえで、出てきたことでありましょうが、
三十歳の頃に、ー ふっとわからせてもらった ー  というふうに
伝えられております。



 こういうことも、ただ単に 「 親さまを頼め 」 という言葉を
聞いただけでは、なかなか真の念仏者にはならなかったで
ありましょうけれども、それが父親の死という厳粛な場面を
通して語られ、また源左にとって本当の問いとなっていった
ところに、妙好人と呼ばれるような美しい花が咲いたと思うのであります。 


 今まで三つの例を申してきましたが、こういったことを考えます時、
私たちも真実の問いをもたせていただくということが、まず大切では
ないかと思います。

もちろん、私たちの日常生活において、わからないことが
たくさんございますから、いろいろな疑問をもっております。

しかし、その多くは、自分の生命の問題とは直接に関係ないことで
ありましょう。

ただ単に道を聞くと言いましても、それは買い物をするための道を
探しているのかもしれませんし、あるいは珍しい物を見に行くために、
その場所を探しているのかもしれません。

それらは、日常生活としては、決して無意味なことではありません。
だが、それが直ちに人生の根本問題とはならないことも、確かでありましょう。



 そういう意味で、今日、学校でいろいろ教育問題が起こって
おりますけれども、特に入学試験競争において、同級生よりも
たくさんの知識を身につけて、試験場ですばやく、しかも上手に
その知識を吐き出すことが要求されていますことを考えれば、
自分の人生とは直接かかわりのない知識というものが、どうも
重要視されているようです。

そういう時代であるからこそ、むしろ自分の生命にかかわる
ギリギリの問題、源左のことばでいえば 「 親さまを頼め 」 と
いうことばであらわされておりますような自分自身のよりどころの
問題を、本当にもたせていただくということも、私は聴聞の中で
考えていいのではないかと思うのです。



 その時、私たちが考えておかなければいけないことは、
問をもつということと同時に、その問に正面から答えて
いただけるとは必ずしも限らないということです。

数学の問題でありましたならば、正解は必ず出てくるように、
学校の試験はすべてそういうことであります。



 しかし、私たちの人生の問いとなりますと、問いに対する
答えがきちんと出てくるかどうかというよりも、問いそのものが
真実の問いにやっているかどうか、反対に私が本当のことを
聞こうとしているかどうか、という私の姿勢が問題になってくるのです。

そういう意味で、私の問いを大切に見つめなければならないと
思うのであります。



 その中から、私自身が問いを出し、阿弥陀さまに答えていただく
というのではなく、むしろそれを超えて、阿弥陀さまの真実が私を
包んでくださっていることに気づかせていただかねばなりません。

しかし、そのことを知識として覚えるのではなく、自分の人生の中で、
本当のことを問いかけていくことが、欠かされてはならないと思う
のであります。

そこに、実は、阿弥陀さまの真実のこころ、お慈悲のこころが
届いてくださっていることが明らかになってまいります。



昭和54年7月29日



 

  浄土真宗本願寺派 大谷 光真 門主 述
      本願寺出版社刊 「願いに応える人生」より

(内容転用の場合は、本願寺出版社の了承をお取りください)

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