葉隠 隠された智慧
一人の女性
小倉局が与えた影響
小倉局の寺 愛敬町・妙念寺住職
藤本 至誠
二代藩主・光茂候を育てた乳母、小倉局の追悼法要は、毎年秋に
門信徒あげてお勤めし、今年は三五三回忌を迎えます。
端座し合掌する小倉局の絵像を、法要の時にはお飾りしますが、
長い年月を経て黒ずんでいました。
表装教室の講師をしておいでの丸山正道先生に、補修をお願いして、
昨年見違えるようにきれいに出来上がりました。
その結果、掛け軸の上段に書かれた讚文と、下段の絵像とは
合成されており、わずか五行の讃文の裏には、百数十箇所細い紙で、
丁寧にひび割れを補修した跡が見つかりました。
小倉局の絵像より、讃文の方が古いもののようで、蓮如上人の
ご文章「在家尼女房章」の一部であることも読み取れました。
葉隠研究・四十三号、光茂候特集号の取材に編集長がおいでの折、
この掛け軸をお見せしながら、『葉隠の思想は浄土真宗に非常に
近いように感じますがどうしてでしょうか。この疑問が解ける特集号を
期待しています』とおねがいし、いつしか、春日局と将軍家光、
小倉局と光茂候の話題になりました。
恥ずかしながら僧侶の経験よりも、テレビドラマ制作演出の
経験の方が、まだ長いためか、登場人物を設定して、物語として
考える癖が抜け切らずにいます。光茂候、常朝、小倉局の三人を
思い描きながら、どんな人生、どんな葛藤があったのか。曹洞宗で
出家した常朝さんの言葉が、なぜ念仏の教えに近く感じるのか。
これを機会に解明してみることは、縁あって八年前、小倉局を
開基とする寺院の住職となった者の務めであろうと、改めて
葉隠を読み直すことにしました。
小倉局との関わり
山本常朝さんは、九歳から光茂候に仕えています。
そのため念仏する小倉局の傍らにいて、知らず知らずのうちに
影響を受け、浄土真宗的な思想が、「葉隠」から醸し出されて
いるのではないかと考え、調べてみましたが、残念ながら、
小倉局が亡くなって十年後に山本常朝さんは誕生しており、
二人の間には接点が見つかりませんでした。
山本常朝が思想的な影響を受けたのは、高伝寺の湛然和尚や、
石田一鼎とされ、念仏と出会った記録は発見出来ません。
無謀な謎解きは、ここで早くも行き止まりました。
しかし、幕府が新たな寺院建立を禁止した直後に、ひとりの
乳母のためだけに、光茂候は、大きな危険までおかして、
なぜ新しい寺院を建設したのか。しかも、鍋島家の曹洞宗ではなく、
どうして浄土真宗の寺院なのか、疑問が残ります。
また、妙念寺に残る掛け軸は、讃文の花押などから、
その乳母小倉局が所持していた可能性があり、その上に、
新たに絵像を描き加えたものと思われること。
こう考えていくと小倉局と関わりがあり、影響を受けたのは、
葉隠を口述した山本常朝ではなく、光茂候本人ではないのか、
そう考えて光茂候の記述を中心に読み始めました。
光茂候の優しさと、厳しさ
「葉隠」巻の五は、光茂候の年譜と言動が記録されています。
この巻は戦国時代を生き抜いた勇壮な直茂候、勝茂候の記録と
どこか感じが違います。
お年寄のように慈悲深い光茂候の姿が、羅列されているのです。
・・・・・評定で死罪になった者が報告されると、すぐには決裁されず、
しばらくお考えになり、どうしてもしょうがないときは、罪を一等ずつ
軽くして仰せ出された (五−9)、
久波(広島県)にお泊りの翌日、お供の当番であった小姓役が
船で海田へ出掛けて、お供できなくなったが、宮島の遊女町へは
行かなかったことを確かめ、罰として大阪まで先にいかせ、
これを許された(五−14)。
罪人について、その罪人が申しひらきができると思われたら、
厳しく追求されて言い分を聞かれてから、お許しになられた。
もし申し開きができそうもないと思われたら、あまりお取り調べも
厳しくなされず、ご自分でいろいろと理屈をつけられて、許された。
これも、人一倍にご慈悲心が深いためだと、みなみな、ありがたく
思ったということである。(五−15)、
参勤途中、大阪に滞在のとき、伊東大和守を接待中、お酌を
していた者が、脇差の鍔で薬酒入りのガラス瓶を割ってしまった。
一座は興覚めしてしまった。そこで、年寄りたちは役を解いて、
佐賀にもどすよう申し上げたが、公は「考えてもみよ、だれが、
客の前で不始末をしてやろうと思ってする者があるか。
自分でも思いもよらないことでの過失は罪にはならぬ」と
お許しになられた(五−16)、
慈悲小屋を建てる(六−94)など、優しさが強調されている項目が
多いものの、一方では、密通事件や、主人を訴え出た者などには、
即刻死罪を命ずる厳しさがあります。
特に、湛然和尚が赦免嘆願をしたのを無視して、僧侶を斬罪にされ、
湛然和尚はその場から寺を出て、佐賀を離れたいと願われたが、
それを許さず蟄居を仰せつけられ、十三年間禁足蟄居のままで、
生涯を終えさせる(六−17)など、優しさには一貫性がなく、多くの
解説書や小説では光茂候が粗野で衝動的であったと見なして
いるようです。
判断の基準は
ところで、こうした光茂候の不可解と思える言動の一つ一つを
じっくりと見て行くと、実ははっきりとした判断の基準があることを
発見しました。
乳母の小倉局が所持していたと思われる、蓮如上人のご文章の
あちこちには、「十悪・五逆」の言葉が再三出て来ます。
十悪とは、身口意(からだ・言葉・心)で犯す、とくに著しい十の
悪い行為のことです。
@殺生(せっしょう・命あるものを殺す)、
A偸盗(ちゅうとう・ぬすみ)、
B邪婬(じゃいん・みだらな男女関係)、
C妄語(もうご・うそいつわり)、
D両舌(りょうぜつ・人を仲たがいさせる言葉)、
E悪口(あっく・きたないののしりの言葉)、
F綺語(きご・まことでないかざった言葉)、
G貧欲(とんよく・むさぼり、我欲)、
H瞋恚(しんに・いかり)、
I愚痴(ぐち・おろかさ、真理に対する無知)など。
五逆とは、五逆罪のことで、五種の重罪のこと。
@殺父(父を殺すこと)、A殺母(母を殺すこと)、
B殺阿羅漢(聖者を殺すこと)、C出仏身血(仏の身体を
傷つけて出血させること)、D破和合僧(教団の和合一致を
破壊し、分裂させること)。
これらの「十悪・五逆」に、光茂候の言動を当てはめていくと、
悪口や告げ口などを異常なまでに嫌ったこと
・・・・お召しになった者などが遅れたりして、「何がしは、まだ来ないのか」と
おたずねのとき、「まだ参りません」と申し上げれば「同輩を引き倒そうと
する気持ちの者だ」と仰せられるので、そのようなときには、「どうした
のでしょうか。見てまいりましょう」と言って御前を立って、使いなどを
遣わしたということである。また「このような不都合は、だれそれがしたのか」と
仰せがあっても、だれと申すことはなかったという。(五−11)や、
「子供のことで、ろくろくけいこもいたしていません」と申し上げた者を
「幼い者を陥し入れるもうしようである」と浪人を命じる(五−12)など、
この「十悪・五逆」の基準で読み直していただければ、どれもこれも、
すべての言動には一貫性があり、矛盾がないように思えてきます。
小倉局のしつけ、教育方針には、こうした善悪の具体的な判断基準があり、
それを藩主になっても忘れていないのではないかと、推察されます。
ところが、出家したにも関わらず常朝さんには、この基準が
感じられないのは、どうしてでしょうか。
禄高を世襲制にした新政策は、常朝さんには不評のようですが、
これは藩の財政を考えただけではなく、激しい禄高争奪戦で、
藩士同士が相争い、要らぬ悪事を犯してしまうのを、光茂候が
嫌ったという一面もあるのではないでしょうか。
日頃気づかず犯している悪、小倉局はそれを幼子に具体的に示し、
育てた効果なのでしょうが、この十悪の項目を見ていると、
テレビのワイドショーのテーマそのものに思えてきます。
現代は、悪事を抑制するどころか、助長しているようにさえ思えてなりません。
子供には、この大人たちの姿はどのように映っているのでしょうか。
戦国時代の武士と、平和な時代の武士
葉隠は、武士として死狂いすること、小業ではなく大業を
なすことを強調しているようですが、反面、忍恋、煙仲間に
象徴される、見え過ぐることのない隠し奉公を、一生骨折りの
重要さも説いています。
戦国時代の緊張した感覚を保ちながら、安定期を迎えた平和な
時代にどう生きたら良いのか。過去の栄光にとらわれず、今を
どう生きるべきか。それを説いているのが葉隠の真意では
ないかと感じます。
光茂候を育てた小倉局が、念仏の信者ならば「南无阿弥陀仏・
南无阿弥陀仏」のお念仏とともに、「恩徳讃(おんどくさん)」と
いうご和讚を口にしていたと思われます。
八百年前の親鸞聖人が、お経の内容を今様形式で詠んで
いただいた七五調の歌の一つです。
如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も 骨をくだきても謝すべし
現在でも浄土真宗の門信徒が、最も親しんでいる和讚です。
この「如来大悲」や「師主知識」の言葉を、「将軍様」や
「お殿様」に置き換えてみると、大変な意味になります。
「将軍様」の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
「お殿様」の恩徳も 骨をくだきても謝すべじ
まさしく、見返りを求めない報恩の奉公、新しい時代の武士道の
神髄のように聞こえてきます。
小倉局が感じていた恩徳は、阿弥陀如来の恩徳であり、
その教えを伝えていただいた先輩方の恩徳を味わい報謝して
いたのでしょうが、それを歪めて受け取り、狭めて解釈すると、
まさしく武士道の基本として通用しそうです。
乱世に、生き延びる知恵
小倉局の経歴を見ると、祖父は本能寺で信長に殉じ、妹は、
大阪城落城の時、千姫とともに脱出した三人の小々姓の一人で、
のちに松平下総守忠明に嫁ぎ、その子・恵照院(姪)の嫁入りに
伴って、鍋島家に来るという、まさに戦乱の世を生き抜いた女性の
一人であったことが読み取れます。
確かな記録は見つけ出せませんが、主人も子供も戦で失った、
悲しい女性だったかもしれません。武士の子女でありながら、念仏の
教えに帰依した裏には、想像を絶する厳しい体験を持った女性で
あっただろうと思われます。
数々の戦乱の悲惨さ、一向一揆の燃え上がるエネルギー、兄弟や
親子の醜い戦いも見聞していたものと思われます。
こうした厳しい現実を知る一人の女性が、四歳の光茂候を、藩の
跡取りとして、幕府の重臣に認知させる暴挙に、命を懸けで関わった
としても、次の藩主に、なんとしても据えたいとの強い願望があったとは、
どうしても思えません。
いつも花鰹を準備して、幼い命が奪われることを防いだように(五−53)、
利発な理想的な跡取りが成長しているとの噂は、命取りになることを(五−61)、
泰平な時代は、敵は外よりも、内側にいることを充分理解していたと
思われます。
父親を亡くし、母親は叔父に嫁ぎ、後ろ盾のない幼い後継者は、目立たぬ
よう真の能力をひた隠しにし、次期藩主になれたとしても、一生部屋住みで
終わることになっても、力強く生き延びていくだけの力を、培われて
いただろうと思います。
十四歳に詠んだという素朴な歌、
「さむき夜にはだかになりて寝たならば明くる朝はこごえ死ぬべし」(五−2)、
この歌を、そのまま素直に稚拙な歌と受け取るのか。
苦しむ民を思う慈悲の心か。
それとも利発さを隠すための、老女の悲しい知恵であったのか。
物語としては、元気で生きていてくれれば、それで充分との老婆の
悲痛な策略と信じたいものです。
成長した光茂候が、小倉局の一周忌に詠んだ歌、
おもひいづや袖もひたふるなみだにて
くらぶかたなき去年うせし人
おもひいづやの「お」、くらぶかたなきの「くら」で、「おくら」と
詠み込んであり、古今伝授を受けたことを考えても、かなりの読み手で
あったと見た方が妥当のようです。
庇護者であった小倉局が亡くなって、祖父勝茂候は初めて、自分の
孫の本当の実力を知らされた、その驚きが、
・・・・「あれほどまで賢いとは、思いもよらなかった」と、たいへん感心して
おほめになり、それ以後は、主君だけが知っておかなければならない
ようなことなどを教えられるようになられたということである。
その前は、あまりお親しくもなかったとのこと。光茂候二十歳の
ときのことという。・・・・・と
葉隠全十一巻の中で、光茂候の記録だけを抜き出した巻五の
最初には書かれています。(五−1)
一心に、ふたごころなく
幼い頃から宗教的な情操教育を受けたとしても、僧侶を断罪に
処する厳しさは(六−17)、どことなく信長の比叡山総攻撃を
連想させ、恐ろしさを感じます。
信長は仏教を滅ぼすことが目的ではなく、乱れた僧侶集団への攻撃が、
理由であったように、光茂候も仏教を否定する気持ちは少しもないようです。
法事などでお寺に参詣して、読経の間に、僧侶に自ら奉仕するなど
敬意を表し(五−7、20、33)
また、将軍家への異常なまでの忠誠心は、正に信仰に近い感じがします。
どこへ行っても、江戸の方を枕元になるように床をとらせられた(五−8)、
将軍綱吉の子、徳松君が病気の時には、佐賀に帰国中であったが、数日間、
上下に身なりを整え、座しておられた。(五−24) 将軍が増上寺へ参詣する
行列が通過の時は、屋敷内で上下に威儀をただし正座し、側役が来て、
将軍様のお通りと申し上げれば、礼をなされた。(五−32)など
将軍家への敬意は、まさに信仰そのもののように思えます。(五−3、4、5)
それも、一神教的な匂いさえします。
阿弥陀仏信仰も、弥陀一仏だけを信じる純粋さがあります。
妙念寺に残る掛け軸「在家尼女房章」には、
・・・一心一向に阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて・・・
(五帖三通)
とあり、その他のご文章にも
・・・一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがって・・・
(一帖三通)
・・・自余の一切の諸神・諸仏等にもこころをかけず、
一心にもつぱら弥陀に帰命せば・・・ (一帖十三通)
・・・弥陀を一心にたのみまゐらせて、疑いのこころのなき
衆生をば・・・ (三帖二通)
・・・一向に弥陀に帰し、一心に本願を信じ・・・ (三帖七通)
等など、小倉局の手元にあって容易に目にすることが出来たであろう、
ご文章やご和讚には、数十カ所にわたってこうした、一心や一向の
言葉が見られます。
将軍家への一心な思いは、これを下敷きにし模倣した可能性もあり、
また敬虔な礼拝をする老婆の姿は、将軍家へ恭順を示す格好の
手本となったのではないかとも思います。
宗教も利用するしたたかさ
葉隠に出てくる寺院名は鍋島藩の菩提寺である高伝寺が多く、
池田賢士郎氏の労作「葉隠索引」によると、三十数項目もその名が、
出ているようです。出家した常朝さんは、光茂候の命日には、高伝寺に
遠路必ず参拝したと記されています。
この他、浄土宗である芝の増上寺の名が九回見られます。
幕府よりも早く、殉死禁止を実行する前には、この増上寺に、なぜか、
伺いを立てています。(四−76)
菩提寺の曹洞宗系の寺院ではなく、また幕府でもなく、増上寺に
伺いを立て、許しを得ています。これは幕府に直接尋ねれば、
「忠義なことだ許す」と殉死を奨励することでしょうし、他の寺院の許しで、
殉死を中止した場合、後になって幕府から、きついおとがめを受ける
可能性もあります。
徳川家に近い増上寺に問い合わせれば、僧侶は必ず殉死を中止させる
ことを計算の上、伺いを立てたと思われ、宗教が何であるのかを、
よく理解出来た、したたかな行動と思えます。
この卓越した宗教感覚は、光茂一代のことで、仏道の印可を受けようと
した綱茂候には、残念ながら、受け継がれなかったようです。(八−22)
全国で最も早い、追い腹禁止政策の裏には、武士世界では異質な文化、
お念仏する一人の女性が乳母であった、その影響もあるのではないかと
思われます。
葉隠に、隠されたもの
葉隠の中には、教訓として曹洞宗の住職の言葉や、儒学の学者の
言葉が随所に見られます。
ところが、高伝寺の湛然(たんねん)和尚の言葉の一部には、
意図的に変えられているようにも思える所があります。
湛然さんが、「・・・そもそも年若い武士が、仏法を学ぼうなどというのが、
とんでもない間違いである。・・・
武士は朝夕の礼拝の折、またいても立っても、『殿様、殿様』と唱えれば、
その功徳は仏のみ名やお経を唱えるのに少しも劣らない。・・・」(六−18)と
書かれていますが、曹洞宗の僧侶が修行をすること、仏法を学ぶことを、
本当に否定するでしょうか。これは、仏道修行のことを雑行、雑修として嫌い、
ただ念仏だけを勧める浄土真宗に、むしろ近いように思います。
蓮如上人のご文章の趣旨を、曹洞宗の和尚の言葉に、置き換えて表現した
ようにさえ思えます。
聖人一流章のご文章「・・・もろもろの雑行をなげすてて・一心に弥陀に
帰命すれば、不可思議の願力として・仏のかたより往生は治定せしめ
たまふ・・・・」や、「・・・余の仏・菩薩等にもこころをかけずして、一向に
ふたごころなく・・・」にそっくりです。
これは、小倉局や光茂候の影響というより、常朝さん本人がどこかで、
お念仏の教えと接点があるのではないか。
佐賀で接触が難しいとしても、京都に滞在中に、本願寺の熱心な信者を知り、
法座につらなった可能性も否定出来ません。
そして、ついには、「念仏の行者は、息する間も仏を忘れないために、
名号を唱えるのだ。奉公人も、主君を思うこと、行者のごとくありたい。
主君を忘れないことを、侍としてもっとも大事なこととしなければならない。」
(十一−一二六)と、なったのでしょう。
こうみてくると、「葉隠」の葉に隠されている思想は、平和な時代の武士道の
極意を説くことではなかったのか。
戦国時代は、ひたすら名を上げ、恩賞を得る、ちょうどプロのスポーツ選手
のような大きな夢が描かれました。
しかし平和な時代は、自分の力を頼りにする自力聖道門の教えより、
ひたすら報恩に生きる他力念仏の教えの方が、生きがいを持つことが
出来るのだと表現しているように思えます。
佐賀鍋島藩の当時の人口は約三十七万人、その約半分は、お念仏の
教えに帰依していました。
職業選択の自由もなく、こつこつと自分の仕事にプライドと生きがいを
持つ生活だったと思います。しかし、戦国時代の武功が忘れられない
武士集団だけは、時代が変わったにも関わらず、夢を追い求めていたの
ではないか。
叶えられない夢を捨てて、堅実な奉公人として生きる智慧を、主君の御用に
立つ家臣として生きるすべを、伝えようとしたのが葉隠の真のねらいでは
ないかと感じます。
そこに関わった一人の乳母、小倉局。
光茂候は、浄土真宗の寺院を建てることで新しい時代の到来を示し、
山本常朝さんは後輩に語ることで、それを伝えようとしたのではないかと
想像します。
今に生きる智慧
就職しない若者、就職できない若者、フリーターとの名の元、
生きるすべを探し求める若者の急増は、何を意味しているのか。
ことによると、戦国時代の武士と同じように、名を上げ高い恩賞や、
良い待遇での仕官、あわよくば城持ちになることを夢みて、浪人し
傘張りの内職に勤しむ姿に、どこか似ています。
ところが、夢は夢として、現実は平凡な自分に見合った仕事を
こつこつとこなし、生きて行くことしか出来ない時代です。
平和な時代の武士と同じように、目立たず焦らず着実に生きていく人々が
大半だと思います。
しかし、学校教育では、独立心を持つことを強調し、個性的で独創性が
あることを期待しています。
確かにこれは重要な要素ですが、「成せば成る、成さねば成らぬ何事も・・・」と
いっても、この世の中には思い通りに成らぬことが多いことも、それでもたゆまず
努力し、損得を抜きにして、無心に励めば、喜びが大きいことも、大人たちは身を
持って示していく必要があるようです。
葉隠が口述された時代と同じく、現代もまた、見返りを求めず、我欲を満たす
ことを目標とせず、報恩に生きる生活、過去にとらわれず今を生きる、お念仏の
阿弥陀信仰的な価値観こそが重要な時代だと思われます。
多分に我田引水のきらいがありますが、葉隠には表面に出た思想的な
背景ばかりでなく、こうした隠された影響が多々あったのだろうと思います。
これまで、宗教的な面は、研究者の目に触れることが少なく、検討される
チャンスもなかったのではないか。
それらの影響を、されに深め多角的に探っていただくことを期待します。
浄土真宗に関しては、その概略や、親鸞聖人、蓮如上人の言葉を現代語で、
当妙念寺のホームページに掲載しています。
(http://www2.saganet.ne.jp/namo)
現代に通ずる葉隠との共通点を、そして現代を生きる智慧を、さらに
具体的に確認して、ご批判、ご助言、ご研究いただけらば有り難いことです。
(元NHKチーフプロデューサー)
参照 松永 義弘訳 (原本現代訳)
古川 哲史著(葉隠の世界)
続編を平成14年秋掲載
藤本 至誠
葉隠の思想が、浄土真宗の教えに近いのは、どうしてなのか。
どこで影響を受けたのか。
二代藩主光茂公は、幼くして父親を亡くし、母は叔父と再婚、乳母の女手一つで養育されましたが、その乳母の小倉局が念仏者であったために自然に感化されたのではないか。
山本常朝は、その光茂公に九歳から仕えており、影響を受けているのではないかと「葉隠研究44号」に寄稿させていただきましたが、さまざまな反響がかえってきました。
ある人は、小学生の時、葉隠四請願を、毎朝、唱和していた思い出や、食料不足の苦しい時代を、思い出してしまったとのつぶやき。
湛然和尚や石田一鼎の影響だけではなく、新たな視点に興味があったと、賛同いただくご意見。
また、戦争を経験された方は、「葉隠は大嫌い。そんなもんを見る暇があったら、お聖教をちゃんと読んで下さい。葉隠など関係ない」と、まったく話を聞こうともせず、日ごろ柔和な方が顔色を変え、拒絶される姿にもあいました。
また、僧侶の先輩からは、念仏者の川上清吉さんが、山本常朝さんのことを詳しく書いて、既に出版しておられるとの指摘もあり、接する多くの人が、「葉隠」に対して、さまざまな表情を示され、佐賀県以外の出身者が感じていた、全国的に有名な「佐賀の葉隠」という賛美のイメージとは、どこか掛け離れた、はなはだ理解しがたい複雑な反応でした。
〇 受け取り方に大きな違い
三島由紀夫が「葉隠」を紹介したのを機に、葉隠を知った世代と、戦争を体験した方の深い想いとには、大きな相違があることは、ちょうど原子力という言葉の響きに、よく似ているように思います。
「原子力」という言葉に、原子爆弾のイメージ、戦争の悲惨なイメージが強くて、拒否反応を示される方と、原子力のあらゆる可能性を探求し平和的な利用に取り組んでいこうとする人々との間には、違いがあるように、この「葉隠」についても、その受け取り方の違いが余りにも大きいことを痛感しました。
そこで、その誤解は、どこで生じたのか。葉隠が脚光を浴びた戦争中に、地元佐賀ではどう伝えられ利用されてきたのか、また、佐賀師範学校で教鞭をとられた川上清吉さんは、その戦争中に、葉隠をどのように表現されたのか。調べてみることで、葉隠がどう受け取られ、今どういう位置にあるのかが、少しは読み取れるのではないかと感じました。
〇 小学生のための・葉隠史談集
インターネットで「葉隠」と検索すると、さまざまなページに出会います。
旅館やラーメンなどの宣伝、武士道を解説する人、著作の紹介など、数千項目にのぼり、実にさまざまです。
その中に、戦争中に小学校で使われた資料集が、古本として販売されていることを発見しました。
佐賀市にある勧興小学校の教師のための資料集と思われます。
表紙には、佐賀市勧興尋常小學校とあり、小学校が国民学校となった昭和十六年以前に作成されたもののようで、早速購入しました。
ガリ版刷りで百八十六頁、「本書は講演者の話材の資料としたものである」とあります。
また、『はしがき』には「児童の心理に應じ話材の取捨選擇を自由にされたい。一題目の所要時間は四十分位と思ふ。一學年の史談會數を五回位に止めたのは正課以外の行事であることと教務多忙なる月などを考慮したからである。」とあります。
四年、五年、六年生ともに、五月、六月、十月、十一月、二月と、年間五回、それぞれに説話が書かれています。
四年生では、「吉之助の出世物語」「今山合戦」「空閑少佐」「成富兵庫」「古賀聯隊長」の五本で、その構成が実に巧みであることに感心しました。
〇 武士道を身近に感じさせる説話
葉隠は武士道の書と言われます。
ところが、武士の人口は、国民のわずか五から六パーセントぐらいしかいませんでした。鍋島藩は武士の数が多かったといわれます。城島正祥先生の『佐賀藩の人口統計』によると、明治三年の鍋島領内の人口、五十一万人に対して、華士卒族の数は、八万三千人、それでも全人口に対して十六パーセントで、多いと言っても、武士集団はまったくの少数派だったのです。
また、戸籍簿の上だけではなく、学校等へ提出する書類などにも、士族とか平民とか記入する欄が存在していました。
この士族の呼称が法律上廃止されたのは、戦後昭和二十二年であり、武士道の書だと言われても、士族でない多くの人には、自分とは関係ない、程遠い存在だったと思われます。
ところが、この説話集の最初の物語「吉之助の出世物語」はその点、武士道を親しく感じさせるためには、打ってつけのテーマに思えます。
物語は、多久在住の農家の主人が、長崎街道を帰る途中に日暮れとなり、佐賀城下扇町あたりで、一人の武士と暗闇の中、ぶつかってしまいます。立腹する武士、謝っても謝ってもおさまらぬ武士、あまりのことに「天下の公道、お侍さまなれば月夜でも、お定紋入りの提灯を照らされるのが・・・」と反論、ついに殺害されてしまいます。
残された息子、十六歳の吉之助は、やがて親の仇を討とうと家を出、武雄温泉の宿で宮本武蔵と偶然出会い、その弟子となります。そして宮本武蔵が住む熊本で、一心に剣道修行すること五年、武芸の達人となりました。
これが熊本城主、加藤清正の耳に入り、鍋島直茂公と相談、親の仇を討たせてやろうと、禄高百石の鍋島武士に取り立てられ、やがて目達原で御前試合をして、念願の親の仇を討ち果たし、褒美に三百石を頂いたという出世物語です。
聞書葉隠にある物語りのようですが、実はそうではないこの話は、努力次第では、武士にもなれる、出世も出来るという大きな夢を与えてくれそうです。
どんな身分でも関係ない、一生懸命努力して、卑怯で憎い米国や英国を打ち負かせば、必ず報われるのだとの夢を子供に与え、自分も兵隊になって戦おう、出世しようという思いを育てるには、充分効果がありそうです。
〇 包囲網を破り活路を見いだす
「葉隠史談」の二番目は、『今山合戦』です。三百六十六年前、元亀元年八月十五日。肥前平定の闘志に燃えた豊後の大友宗麟の嫡子、八郎親秀が十万以上の大軍で攻めてきました。
ついに今山に本陣を築き、見渡す限り山も野も丘も大友勢で埋め尽くされました。これに対して、守る佐賀城の龍造寺軍はわずかに二千人。四面を囲まれてしまいました。
そこに一人の山伏が、大友八郎の前に現れます。今朝、今山の本陣の上空に五色の瑞雲が現れたと進言、喜ばせて佐賀城への進軍を一時中止させ、前祝いの酒宴が開かれたその夜、鍋島直茂が夜襲をかけ、大友勢を討ち果たすという佐賀の最大危機を乗り切った物語です。
この危機は、国際連盟を脱退し、経済制裁を受けていた苦しい日本の当時の状態を連想させます。その困難を打開するために奇襲をかけて、活路を見いだしたというこの話は、子供たちにはどう響いたのでしょうか。
この物語もまた、葉隠の中にまとまった記述はなく、葉隠史談集といっても、ここでの「葉隠」は、「郷土の」あるいは、「佐賀の」の意味で、使われているように感じます。
わが郷土、わが国佐賀が、わが国日本へと広がっていくには、実に効果的な物語で、しかも狭い島国に閉じこもって、じっと待っていただけでは事態は改善しない。攻めて出るしか活路を見いだす方法はないのだとの思いが頭をよぎります。
この教材は、大友側の豊後大分では使えません。佐賀独特の郷土意識、郷土愛が培われていく『旗印』として、葉隠という言葉が、都合よく利用されていったのではないかと、想像します。
〇 英雄の座右の銘
第三話は、「空閑少佐の自刃の真相」
昭和七年、この勧興小学校出身の空閑少佐は、上海事変に出征。激しい戦闘で重傷を負い仮死状態で、蒋介石軍に助けられ、捕虜となってしまいます。交渉の結果、日本軍に返されます。無事帰還できた少佐は、戦闘の功績者申告、戦闘記録報告書等を作成して、指揮官としての責任を果たした上、部下が戦死した場所を訪ね、自害してしまいます。
これこそ武士の中の武士だと、褒めたたえられる母校の先輩の武勇伝が、感動的に書かれています。あこがれの先輩が、子供の頃から親しみ、座右の銘としていたのが、郷土の聞書葉隠だったと。
こうした風潮は、大人の本でも同じで、昭和十一年発行の大木陽堂著「葉隠論語抄」(教材社発行)にも、空閑少佐の遺品の中には、赤鉛筆で記され、読み込まれた「葉隠」が残っていたと、その項目が多数紹介されています。
第五話の古賀連隊長も、昭和七年、華々しく戦死した郷土の葉隠武将として描かれています。前述の葉隠論語抄には、「葉隠と現代人」の項目に、佐賀出身の古賀連隊長や、爆弾三勇士の名前がそこに上げられています。
〇 さまざまな葉隠の本
佐賀市松原町五八の三、佐賀県教育會編の「葉隠読本」は、昭和十六年六月に子文書房から発行されており、昭和十七年二月発行の第三版が手に入りました。
この本は、葉隠の成立やその内容を三十五章に分けて記載されている百二十二頁の薄い本ですが、一見すると戦時高揚が目的ではないようにも見えます。
しかし、見開きの写真に、侍従長海軍大将の百武三郎書の葉隠四請願が、写真版で大きく全面に掲載されています。
教育現場の副読本のようですが、ここに、藩主の意に反してでも、命懸けで筋を通した女性として、小倉女の項目がありました。
同じ内容の本は、福岡の出版社からも、出版されており、敗戦直後昭和二十年十一月発行の再版本も手入りました。
定価は、二円とあり、戦前は五十銭であった本が、四倍にもなっています。
県下の各中学校から一名代表を出し編集された「葉隠抄」(佐賀県中学教育会編)は、昭和十六年の六月発行で、編集委員が選択した葉隠の原文が忠実に記録されており、教育者の良心で苦心された後が感じ取られます。
しかし、その前書きには皇紀二千六百年記念とあり、また表紙の題字には、佐賀県教育会の会長へ就任した、かの海軍大将閣下が登場しています。編集委員の意図に反して、各教室では平和な時代には想像さえ出来ないような教育が、進められていったことでしょう。
〇 異質な葉隠の解説本
こうした中、昭和十七年発行の「葉隠の哲人・山本常朝」は、現代そのまま復刻しても、決しておかしくない内容の本です。旧仮名づかいであることを除けば、戦前戦中に発行された本であることを、忘れさせるような純粋さが感じられます。著者の川上清吉さんは、自序の中で、「この素朴な端的な表現の語録の中には、武士道書、道徳的教訓としての意味の前に、今一のものが祕められてあるのが感じられて来た。それは、或は水戸学や山鹿素行の教學の根底にあるものなどより、もつとゆたかなもの、もつと『日本的』なものではないかとすら思はれて來たのである。」と記してあります。
武士道の本、いさぎよく死ぬための本と、誰もが走っている中で、誠に異質な本といえます。
川上清吉さんは、島根県の出身で、大正十四年から鹿島中学の教員に、昭和四年からは佐賀師範学校教諭、佐賀県視学委員、佐賀師範学校教授として哲学や教育学を教えられた方です。
学校の中だけではなく、各地に出掛けて歎異抄など親鸞教学の指導をされていた方としても有名でした。著作の多くは信仰や教育関係の本ですが、この山本常朝に続いて「葉隠の哲人・石田一鼎」も出版されています。
〇 佐賀の人は答えてくれない
川上清吉さんは、著書「葉隠の哲人・山本常朝」の序章で、「私は、佐賀に家を構へてもう十年を超した。私は土地の人が、よく『葉隠』のことを口にするのを聞いた。しかしそれについて聞きただして見ると、殆どの人はあまりはつきりした答へをして呉れない。ただ昔から佐賀藩には葉隠魂といふものがあって、それが顯れて明治維新以來、多くの人材を生み出したといふのである。例へば、大隈重信、江藤新平、佐野常民、副島種臣、・・・・
。
それでは藩閥のやうなもので、あまり感心するほどのものでないと、正直なところ當時そう思ってゐた。」と述べられています。
確かに、葉隠の里とか葉隠魂とか現代でも口にするものの、それはどうゆうものかと尋ねると、なかなか確かな答えは返ってこないものです。
漠然と理解しているものの詳しい正確な内容は、なかなか説明できません。
その原因は、葉隠を直接読んで、全体像をつかんだ人が、当時も今も、どうも少ないのではないかと感じます。
戦争中に学校で部分的に習った人、佐賀の代名詞として、新聞や雑誌などで日常的に読んだり見たりしているものの、その情報は断片的なもので、葉隠という言葉を都合よく使っている人が多いようです。
葉隠という『包装紙』で、ありとあらゆるものを包んで、受け渡しをしたために、人それぞれに、その内容はまったく異なって写っているように思えます。
ですから、葉隠は、古い過去のものとか、危険で害の大きいものとか、受け取った時の印象が抜け切らずにいるように感じます。食べものの好き嫌いのように、第一印象が良くなく、嫌いになって、そこからどうしても抜け出せずにいる人が、地元である佐賀には特に多いのではないでしょうか。
〇 佐賀的なものへの反省の書
「『葉隠』は、山本常朝の『人』の中にある最も佐賀的なものの如實な表現であると共に、又佐賀的なものへの嚴肅なる反省の書であり、深切なる警告の書である。恐らく、常朝の時代には既にかやうな誡めを必要とするやうな事態が藩士の生活の上に相當に濃く萌してゐたものであろう。」
「幼少から鍋島光茂に仕へて、その側近者としての位置から見た『世間』は純一な彼の目には、苦々しいもの、憂ふべきものとして映ずるものが多かったのではあるまいか。それでなければ、あれほどまでに鋭く語る必要はないであらうし、檄越にいましめなくてもよかったであらうと思はれる」と、葉隠のその本質をついた表現がなされています。
葉隠の内容を、現状肯定的にとらえる風潮が現在もありますが、そうではなく、現状を憂い、反省し戒めるために書かれた本であるとの視点です。
「晩年の彼は隠遁者である。然も世間を捨てて後十幾年も經て語ったものである。それでなほ『大慈悲』を請願し、『諸人一和』を高調して止まない彼であることを思ふ時に、その時代の背景といふことを考えて見られなければならないと思ふ。 その点から見ても、佐賀の人々は、より謙虚に、より深刻に、この『葉隠』を読みなほさなければならないのではないかと思ふ。」と、川上清吉さんは書かれています。
山本常朝が語った時代は、戦争が終わって安定した平和な時代でした。戦争をまったく知らない若者ばかりで、武士としてのたしなみを忘れた乱れた時代、そうした時代に口述されたのが葉隠です。
その葉隠が、注目されたのは第二次大戦中でしたが、平和な今この現代の方が、時代背景はずっと近いのです。
戦争を知らない人が多くなった今こそ、苦々しいもの、憂ふべきものが一杯の現代にこそ、多くの示唆を与えてくれるのでしょう。
「佐賀の人々は、より謙虚に、より深刻に、この『葉隠』を読みなほさなければならないのではないかと思ふ」との言葉の重さを感じます。
〇 如是我聞の書
「この書は世間から、武士道の精髓を示すものとして、古典としての取扱をうけるやうになったが、しかし、他の武士道の書とは、何處か趣の異つたところがある。」(葉隠の哲人・山本常朝、十三頁)
「著者の方にもこの書によって多衆を導かうといふ意志はなかつたであろう。ただ、自分の止み難い求道の一念と、その師への深い傾倒から、その師説のままを、ーーその語氣をまで、ーー 聞くにまかせて、次から次へと記したものと思はれる。」(十四頁)
「だから、これは全く『如是我聞』の書であり、師のことばの忠實なる聞書であったのだ。その點から、私には、その敬虔さのゆゑに、又その編述の態度からして、『法眼蔵隨聞記』や、『歎異鈔』などが連想される。
常朝自身も、ことさらに一家を成さうとするような態度を誡めて、一世帯構ふるが悪しきなり(巻一)と云つてゐる」(十五頁)
「『葉隠』はかように、無私と謙虚の中からおのづからに生れ出た書物である。それにも拘わらず、その頁の何處でも抜いて見ると、どうであろう。誰もが鐡槌で打ちのめされるやうな迫力を感じざるを得ない。特には剛刀のような機鋒によって威嚇される。
『武士道といふは、死ぬことと見附けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片附くばかりなり。・・・(巻一)』」(十六頁)
と川上清吉さんは書かれています。
〇 私を優先するか、公を優先するか
葉隠で一番知られた言葉、「死ぬことと見附たり」だけが、どうも一人歩きし、ただ死ぬことだけを勧めている様に受け取られているようです。
戦争中の解説書の多くが、「死ぬことと見附けたり」で、文章が切られており、肝心なその後の部分が、意図的にか省略されているものが大半です。
しかし、その後に、「二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片附くばかりなり。別に仔細なし。胸すわって進むなり。圖に當たらぬは犬死などと云う事は、上方風に打上りたる武道なるべし。二つ二つの場にて、・・・」と言葉は続きます。
武士という、わずか一握りの人たちは、多くの人びとが平和で安心して生活できるよう、自分の命を投げ出す役割であったはずです。
武士は、共同体を守ること、公に仕えることで、大衆から支持され存在意義があったと思われます。そこが、無秩序な暴力集団とは違っていたはずです。
私利私欲、自己保全のために武力を用いることは、力を持つ者が権力を持つ者が、最も恥じるべきことだったと思います。
「二つ二つの場に、早く死ぬ方に・・・・」とは、自己保身のために逃れるのではなく、無私を選択すべき奉公人としての立場を、強調しているようにも受け取れます。
とともに、盲目的に服従することを、否定しているのも特徴です。
主君であっても誤りがあれば、それを直し国が治まるよう、人知れず努力することの重要性が述べてあります。
こう見てくると、平和な時代の葉隠は、公に仕える公僕、公務員のための書であり、社会的責任がある経営者のための書であり、多くの生死に関わる医療関係者の書、従業員の将来を左右する管理職の書、家庭では、家族を守り養育する親のための書であると理解すると、秩序が乱れた今、この時こそ、最も意味があり、必要とされる書であると感じます。
〇 次の世代に残す真実
自己中心が増長し、日本人中心に、日本国民だけの夢を求めた不幸な時代に、突然脚光を浴び、歪められ片寄った解釈で誤解されてしまった「葉隠」。
地元佐賀では、子供の頃から接したために、アレルギー反応を示す人が、尚一層多いのだと思います。
しかし、下村湖人の次郎物語に登場する朝倉先生のように、時代が変わっても変わらない真実を求め、子供たちに正しく伝えようとした勇気と理想を持った方々があったのも事実です。
その一人、教育者として求道者として、葉隠の持つ永遠の真実を正しく伝え残そうとされた川上清吉さん。
その教え子たちは、毎年大和町の常立寺に集まり、戦争中でも真実を教えていただいた恩師を偲び、その教えを受け継ぐ法要を、今でも毎年開かれていることを、知りました。
どうゆう指導者によって、葉隠と出会ったのか、その指導者によって、認識は大きく違ってきているように感じます。
ところで、現在は、何かを伝えようとしても、なかなか伝わらない、困難な時代です。最も大事な子供や孫へ、企業の後輩たちに、可愛い児童学生たちに、真理を、真実を伝えることが、非常に難しい時代です。
それは山本常朝の時代も同じであったと思います。
自分の言葉で、論理的にその真理を伝えることが出来ない時代、この葉隠を通して、人間らしく豊かに生きるには、どのように認識して、どのように行動すべきかを、伝え残すべき大事な時期ではないかと感じます。
そして、宗教もまた、この葉隠と同じく自分をコントロールし、積極的に行動すること、人間らしい喜び多い生き方、豊かに共存する智慧を、確かに伝えていくための重要な財産だと思います。
先輩たちが蓄積してきた智慧を受け取ることで、繰り返し誤りを起こさないようにすることが、先に生まれたものの責任です。
意図的に編集された一部分だけで判断するのではなく、全体像に接することで、その本質を理解して、一人でも多くの若者に、この智慧を確実に相続していきたいものです。
そのためには、まずは、大人の自分が正確に受け取って実践することが、先決だと感じます。
おわり