雑用はない
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先日ラジオで、岡山にあるノートムダム聖心学園の
理事長さんの渡辺かずこさんのお話を聞きました。
渡辺さんは、昭和11年、二二六事件の時に、
青年将校たちが、襲った渡辺教育大臣のお嬢さんです。
8歳の渡辺さんは、目の前で40数発の銃弾を受けて、
倒れる父親の姿を見てしまいました。
それから、30歳まで家族の生活のために結婚せず働き、
その後、キリスト教の修道院に入り、やがて外国の修道院に
一人だけ派遣されたのです。
外国の修道院での仕事は、単純なことが多かったようです。
食堂に130人分の食器を一つ一つ並べていく作業をしていた時です。
無心になってお皿を並べていると、
先輩の修道女から 「 何を考えて作業をしていますか 」 と
たずねられました。
「 何にも考えずに仕事をしています 」 と答えると、
強く叱られたそうです。
折角ならば、このお皿を使う人のことを思い、その人の幸せを
祈って仕事をしたらどうですかと。
こうした生活の中で、この世の中に、
雑用というものはないと、気づきました。
どんなことでも、雑に行った時に、雑用になり、
真剣に行えば、それは雑用ではなく、大事な仕事であると。
日本に帰って、大学の学長時代に、
若い学生さんと、合言葉を作られたようです。
「面倒だから、しましょう」。
普通、面倒なことは後回しにしてしまいますが、
面倒だから、手紙の返事を書こう。
面倒だから、紙くずを拾おう。
面倒だから、挨拶をしよう。
面倒だから、洗面台の髪の毛を取ろうと。
面倒なことを進んでやろうと、学生達と実行されたそうです。
また、こんなこともおっしゃっていました。
人生の終わりに残るものは、我々が集めたものの
トータルではなく、我々が与えたものの多さである。
私たちは、一生涯かかって集めた、財産や地位や名誉など、
多い方が、価値ある人生のように思っています。
無理して集め、蓄えたものの多さより、
他の人に与えた喜びや、笑顔や親切など、
与えたものの多い人の方が、人生に意味があり、
喜びが多いものであると。
今から800年前、イタリヤのフランシスコとう方は、
こういう言葉を残しているそうです。
「なぐさめられるより、なぐさめることを喜ぶ人になりたい。
愛されるより、愛することのできる人になりたい。
理解されるよりも、理解することの出来る人に、なりたい 」 と。
渡辺さんは、今はキリスト教の方ですが、
浄土真宗の家に生まれ、浄土真宗のお話しを、
お父さんが亡くなられた子供のころに、悲しみをご縁に
ちゃんと、聞かれた方のように思えます。
どこか、私たちの教えと近い感じがします。
私たちも、南無阿弥陀仏のお念仏とともに、
面倒なことから始め、どんなことにも挑戦し、
力いっぱいイキイキと生活したいものです。
妙念寺電話サービス、お電話ありがとうございました。
次回は、6月19日に新しい内容に変わります。
( 平成 9年 6月12日〜 第229回 )