必至無量光明土

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。

浄土真宗のお念仏の教えを、よく聞いておられる

中溝文治さんという方が、お寺の近くに住んでおられます。


ここ妙念寺での法供養を、何度も開いていただきましたが、

最近では、勧学の稲城選恵先生や深川倫雄先生を、

呼んで法座を開いていただきました。


この中溝さんは、書道もなさっています。

書かれる文字の多くは仏教の言葉です。

まもなく開かれる書道の展示会に、「必至無量光明土」

という言葉を書かれるそうですが、展示する時に、

言葉の意味を解説する短い文章が必要だそうで、

「必ず無量光明土に至る」でいいだろうかとの質問を受けました。



必至無量光明土という言葉は、正信偈の中にある言葉です。  

日頃、お勤めで使わせていただく、赤い表紙の真宗勤行集を

見ると、24ページに必至無量光明土とあります。

そしてその下には意訳がありますが、

「ひかりの国にいたりては」、と書かれ、

次に「あまたの人を救うべし」と続きます。



そのページ全体の意訳を読みますと。

「まどえる身にも信あらば、まよいのままに救いあり、

ひかりの国にいたりては、あまたの人を救うべし」と

書かれています。



正信偈を解説してある他の本を見ますと、

『解説礼拝聖典』によりますと。

必至無量光明土は、「命終わって、光明無量の浄土に至れば」と

あり、続いて「一切衆生に利益を施す仏の身となる」と書かれています。



浄土真宗聖典註釈版でも「かならず無量光明土にいたれば、

諸有の衆生みなあまねく化すといへり」と、あります。

早島鏡正先生の現代語訳によると、

「 命終わって、光明無量の浄土に生まれて仏となるや、

必ずこの世に還って、あらゆる人々を教化して救うのである 」 と、

書かれています。



こうして必至無量光明土という言葉を見て来ますと、

お浄土に生まれることは、私が喜びや楽しみを得るためでは

ないようです。



お浄土に生まれることだけが目的でなく、

お浄土に生まれることで終わってしまうのでもなく、

お浄土に生まれ、あらゆる人びとを教化し救う働きをする仏に

成ることが目的であるように説かれています。


仏になればお浄土に留まって、じっと動かずに、

遥か彼方の遠いところにいるだけではなく、

この世に還って、仏さまと全く同じ智慧と力を持って、

精一杯に働くことが出来るのだと、読み取れます。


一般的な常識では、お浄土に生まれて、そこで修行して、

仏になることが最終目的のように思われていますが、

親鸞聖人が味わわれた阿弥陀如来の願いは、

迷っている衆生を一人残らず救うためであり、

そのために、この私も仏にして働かせていただくのです。


そのために、この私が修行して、自分の力を頼りとして仏に

成るのではなく、南無阿弥陀仏を称えさせていただくことで、

仏の仲間にしていただき、やがて命終われば阿弥陀如来と

同じさとりと同じ働きの出来る南無阿弥陀仏の仏様に

していただくのです。



自己本位の私が、すべての人々の悩み苦しみを取り去るために、

喜びながら働ける南無阿弥陀仏の仏様にしていただけるのです。

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。

次回は、7月31日に新しい内容に変わります。

                         ( 平成 9年 7月24日〜 第235回 )