さとりの内容

 

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。

今年も残りわずかになりました。

12月と言えば、キリスト教のクリスマスが年中行事になっていますが、

仏教でも12月は大変意味のある月です。

 

今から2500年前の12月8日に、お釈迦様が、

さとりを開かれたといわれ、成道会が催されます。

 

お釈迦様のさとられた内容が、長い年月たつにつれて

少しずつ変わって伝えられており、

現在では、仏教は死後の世界、亡くなった人のための教えのように

受け取られていますが、本当はそうではないのです。

 

お釈迦様は、不死の法を、死なない法を得たと言うのが最初の宣言でした。

インドでは、輪廻転生が信じられていました。

命終わったら次の世界、六道の迷いの世界に生まれ変わるように

思われていました。

 

ところがお釈迦様によって、輪廻転生をしない命が初めて

明らかになったということです。

 

このことを、妙好人の浅原佐市さんは

  

 「佐市どこにおるか、浄土をもろうて、娑婆にいる。

  それが喜び、南無阿弥陀仏。」と

 味遇っています。

 

仏典を読んでいると、無我に成るとか、無我に成れとか、

説いてはありませんで、無我であることを知るとか、

無我であることに目覚めよ。とあります。

 

それというのも、6年間の苦しい修行を中止された後、

釈尊は、縁起の道理を持って繰り返し繰り返し、

洞察されたとあります。

 

ガンジス河の砂の数ほどの、多くのご縁をいただいて、

この身をいただいていることに目覚められました。

 

私自身を構成している条件や、ご縁を取り除いたら何が残るだろう、

何も残らないと、無我であること、空でさとられました。

 

人間は我執の固まりですから、まず私がおりますと言うところから

スタートすると、福は内、鬼は外と自分に都合のよい縁だけを

探すことになります。

 

しかし、自分に都合の悪いことをご縁として、見えてくることも

沢山あります。

 

リユーマチの年寄りの方が、この痛さは若い者には

分からないだろうと愚痴をこぼされたのに対して、

死んだら痛みはなくなるものですよと、若者が答えました。

 

老人は、怒り出すどころか、ああもったいないことを言ってしまった。

足が痛くなるまで命をいただいていたということだったと。

 

また、ダンプカーの運転手さんが、飛び出してきた、

少女を轢いてしまった。

 

お通夜の席で、どんなに怒られるだろうかと、

覚悟を決めて参列したら、少女の父親が、

娘が飛び出したせいで貴方にも、ご苦労をかけましたと、

逆に慰められたといいます。これも仏法に出会った人の言葉でしょう。

 

煩悩もご縁である、その煩悩にとらわれていることを気づくこと、

こだわりを捨てること、苦悩を避けるのではなく、

苦悩を引き受けていける教えを、釈尊はさとられました。

 

マイナスにしか受け取れなかったものが、

プラスに受け取れるようになる。

 

いろんな苦悩を、引き受けていく、苦悩をいただいていく教え。

 

我が身一人がよければいいというエゴの世界に

生きている私であることに気づかさせていただくことが、

お釈迦様のさとられた内容であり、お念仏の教えであろうと思います。

 妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。

次回は、12月18日に新しい内容に変わります。

 

 ( 平成 9年12月12日〜 第255回 )