周りは みんな仏さま
妙念寺電話サービス、お電話いただいてありがとうございました。
お念仏を心から、喜んでいらっしゃる方のお話しを、先日聞きました。
北海道の方で、農業をなさっている普通の方なのですが、
いつも口にしておられた言葉が、「 もったいない、南無阿弥陀仏。
あーあ、有り難い、過分なことです、南無阿弥陀仏。」と
どこでもお念仏をされ、周りの全ての方々を貴ばれる方で
あったといいます。
これは父親の遺言だったといいますが、
「 ウヘイよ、お前の前におられるお方は、ただの人だと思うなよ。
どの人と限らず、目の前におられるお方は、ただ人と思うじゃないゾ。
お前が可愛いばっかりに、その姿に身を変えて、
阿弥陀如来の親様が、お前の目の前に出てくださっておるのだから、
失礼にならんように近づいて、仏様のお徳をいただきなさいヨ。」と
言われたということで、この親の遺言どおりに生きられた方です。
この 「 お前が可愛いばっかりに、その姿に身を変えて、
阿弥陀如来の親様が、お前の目の前で出てくださっておるのだから
」 と
の言葉が、一生涯の指針になった方であるといいます。
この親の言葉が毎日の生活の中心になったようです。
これが生活の土台になったのです。
ですから、目の前の方はどんな方でも仏様である。
自分の奥さんは観音様。
それは人間に対してだけでなくて、カラスに出会っても
合掌して、南無阿弥陀仏、犬に出会っても南無阿弥陀仏。
そして、皆に嫌われるハイにも、ハイさん、ミミズさん、
自分の子供や孫までもみんなサンをつけてしまう方で
あったといいます。
自分の子供や孫にサンをつけるのはおかしいじゃ無いかと
言う人に、イヤー、子供、子供と言うておるが、
子供がいなければ淋しい私。
子供がおらんかったら助からん私を、助けるために私の子供になって、
身を表してくださった仏様と思うと、もったいなくて呼び捨てに
出来ませんね。
と、すべての生き物すべての人に合掌して念仏をされたといいます。
お説教の席での、お礼のされ方も、頭を畳みにつけるというより、
口を畳みにつけるように、ヒラグモのようにこれ以上体が
低くならぬように、ひれ伏して挨拶をされたといいます。
それは目の前におられる方は仏様ですから、
本当は御足をいただくのが当然であると。
こうした挨拶されたといいます。
周辺の人も感化されて、村中が皆そうした挨拶を
されるようになったといいます。
仏法というのは本当は礼拝、讃嘆、頭が下がって、
相手の徳を拝ませていただくのでしょう。
坂村しんみんさんの歌に、
光る光る、全ては光る。光りなきものは、
他の光を受けて光る。
坂村しんみんさんの詩の世界の光るとは、仏さまになる。
私の回りの人々は、みんな貴いお徳を備えた仏様なのに、
こちらが、愚かなもので、誠がないから、その仏様に
気づいていないのではないか。
このようにも味わえます。
南無阿弥陀仏は、その仏様を讃嘆する言葉、
私に与えられたほめ言葉でしょう。
私の周りはみな仏さま、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
周りはみんな仏さま、南无阿弥陀仏、南无阿弥陀仏。
妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、元旦に新しい内容に変わります。