宿縁を慶ぶ
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早いもので、もう7月、一年の半分は終わってしまいました。
あれよあれよと時は、過ぎていくものですが、
親鸞聖人がお書きいただいた教行信証の最初に、
こんな言葉があります。
ああ弘誓の強縁、多生にももうあいがたく、
真実の浄信、億劫にも獲がたし、
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。
という言葉です。
漢文で書かれておりますものを、意訳していただいたものを見ますと。
一体、私たちは、いかほどの時を
流転しつづけてきたのでしょうか。
今この時まで、阿弥陀仏の弘誓に出会うこともなく、
長い長い間、真実の信心を獲ることが出来なかったのです。
ああしかし、その本願にいまやっと出遇うことができました。
それを可能ならしめたのは、いままでのこの無限の時間を、
阿弥陀仏が一瞬の休む間もなく、この私のために、
大悲の光明を照らしつづけてくださったからです。
私にとって弥陀の行信を獲ることは、
偶然としか言いようはありません。
けれども無限に照らしつづけられた、
大悲の光明がなかったならば、私における獲信はありえませんでした。
このことよりみても、はるかに遠くからの宿縁を慶ぶべきです。
とあります。
せっかく阿弥陀仏が、無条件で汝を救うという大悲を
私たちの前に示してくださっているのに、
私たちはその阿弥陀仏の本願に気づかないまま、
いたずらに右往左往して、結局最後に、死を迎える時に
なってあわてるような、むなしい人生を送っているのです。
親鸞聖人は、法然上人に出遇うことによって、
自分の本当の姿を知らないで迷っている人間であるということを、
そして、その迷いの中に生きている自分を、
如来が何の条件も付けずに、救ってくださるのだということを、
教えていただけたのです。
迷い続けた私に阿弥陀仏の大悲は常に照らし続け、
南無阿弥陀仏の声の仏様となって、
この私を無条件で救うため、
呼び続けてくださる、仏の大悲の存在を
知ることになったのです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と常にこの私を呼び続けて
おられることに気づかせていただきたいものです。
妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、7月9日に新しい内容に変わります。
( 平成10年 7月 2日〜 第284回 )