仏は完成した人間
 
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親鸞聖人が私たちに伝えたかったことは、
仏になる法、成仏の法であったと思えます。
 
現在、西本願寺の学問上の責任者、
勧学寮頭の武邑尚邦先生が、
若き日に聞いて忘れられない言葉に、
こんなことがあるとおっしゃっています。
 
仏とは完成した人間であり、
人間とは未完成の仏であると、教えていただいたことです。
 
ですから、仏法を学ぶというのは、
本当の人間になるということであると。
 
本当の人間とは、他人の苦しみや悲しみを、
自分の苦しみ悲しみとして、共感できるものということであります。
 
人間は一人一人別人でありながら、
慶びも悲しみも、お互いに共感し、他人のために涙の流せる人間になる、
それが仏道であるといわれるのであります。
 
しかし、このような人間になることは、大変なことでありますが、
仏とはこのような慈悲心に生きる人であります。
 
仏教では、慈悲心を人を慈しみ、
他人の悲しみを自己の悲しみとする心であるといい。
 
これを苦を抜き楽を与える、抜苦与楽といいます。
このように、抜苦与楽のできる人間、
それが仏であり、それを完成した人間というのであります。
 
しかも、そうなることができるのが、
人間界に生をうけた人間であります。
 
ここに、人間のあるべき姿を示されているようです。
 
このようにあるべき人間の姿を鏡にして、
自分の姿を写してみた時、はたして、
私たちは、立派に人間としての姿を
しているのでありましょうか。
 
そこに、徹底した厳しい自己批判がなされなければなりません。
 
この自己批判をとおして人間は本当の人間に
育てられるのであります。
 
完成した人間である仏に比べて、
自我我執のとりこになっている自分自身に
気づいたとき、南無阿弥陀仏の念仏が
自然に出てくることでしょう。
 
そして、自分の力だけではなく、
大きな自然の力に支えられている。
 
生きている自分ではなく、生かされている自分に
気づかせていただけるのではないでしょうか。
 
人間に生まれたのは、完成した人間、
仏に成らせていただけるためであったのだと。
 
妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、8月6日に新しい内容に変わります。
 
                      ( 平成10年 7月30日〜 第288回 )