仏に見守られ

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9月は、敬老の日に関連して、お年寄りのお話をいろいろ聞きましたが、

その中で、痴呆症のお年寄りのお世話をなさっている方がこんなことを

おっしゃっていました。


人間悲しいことに、年をとると痴呆症、俗に言うボケが出て来る人がいます。

施設などに入っている老人の中には、

「 早く帰ってやらねば、子供が待っている。

早くご飯の準備をしてやらねば 」 と、自宅へ帰ろうとする方が、

たくさんいらっしゃるということです。


育ち盛りの子供の面倒を見ていた、昔に戻ってしまったのでしょう。

また、「 ここは自分の家ではない、家に帰りたい 」 という方も多く、

自宅に連れて帰ると、ここではない、ここは自分の家では無いと

言い張る老人がいるといいます。


それは、住み慣れた自宅ではなく、子供のころ生まれ育った家を

思い出してのことだろうと思われます。


こうした話を聞きながら感じますのは、人間の本質とは、

生きがいがあるのは、誰かのために精一杯尽くすことだと思います。


もうひとつは、子供の頃に、親の元で、優しく見守られていた頃の喜びです。

純粋な痴呆症の老人のことを聞きながら、お釈迦様のお説きになった、

仏に成ることと、仏様に見守られていることの、両方が人間にとっては、

もっとも根源的な喜びであるように思います。



往相の廻向も、還相の廻向も人間が本質的に求めていることでは

ないかと思えてきます。

                                

人間の本当の望み、求めていることを、仏教は、

教えていただいているようにも思います。


 阿弥陀如来の教えは、自分が見守られていることの喜びと、

精一杯誰かのために努力する、頼りにされる人生、

この両面が説かれています。


お念仏は、阿弥陀如来にいつも見守られていることを

感じる南無阿弥陀仏ですし、やがて衆生救済が出来る仏になることを

喜ぶ教えです。


最も人間の本質にかなった教えが、

南無阿弥陀仏であると、うなずけます。

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。

次回は、十月一日に新しい内容になります。

                      ( 平成 10年 9月24日〜 第296回 )