第421回 おこころを味わう(2)

   平成13年 2月 15日〜

妙念寺電話サービス、お電話ありがとうございました。
ところで、京都の西本願寺では、今年も一週間、
ご正忌報恩講が勤まりました。


このご正忌に、ご門主さまが、ご法話・ご親教を
いただきましたが、その要約が本願寺新報という
浄土真宗の新聞に掲載されています。
先週からご紹介していますが、今回はその二回目です。



 「先日、京都で発行されました新聞に、ある心理学者の
意見として『現代人は科学技術によって、一週間後の
お天気がわかったり、遠い外国のことも即座にわかる
ようになったけども、隣にいる、身近にいる家族の
気持ちがわかっていない』という意味の文章が
載っており、『はっ』とさせられました。


更に付け加えますと、周りではなくて、自分自身の
こともわかっていないと反省させられることです。
文字や映像などの情報は手に入っても生身の人間の
ことがわからない、分かりにくいということでありましょう。


阿弥陀如来さまの光があたっているのは、生身の人間、
この私であり、お隣の人です。


ですから、家庭生活、社会生活の中で、阿弥陀如来さま
のおこころを味わうところに大切な点があります。


お念仏申しつつ、日々の出来事の意味を考え、体験を
そのままで終わらせず、お慈悲を味わうご縁にして
いきたいものです。


親鸞聖人は、ご和讚に

  如来の作願をたづぬれば 

  苦悩の有情をすてずして

  回向を首としたまひて

  大悲心をば成就せり

とうたわれました。

阿弥陀如来さまは、南无阿弥陀仏となって、
今ここに来ていてくださいます。
苦悩の有情にとっては、物事を正しく見抜くことは
易しくありません。いのちに限りがあると知ってはいても、
その通り受け入れることは簡単ではありません。
正しい努力を積み重ねることも易しくありません。



 阿弥陀如来さまは、すでにそこを見抜いて、
南无阿弥陀仏となって、おさとりの世界である
お浄土へとよんでくださるのです。


ですから、阿弥陀さまの前では、我が身を取り繕う
必要がありません。
我がはからいを交えず、素直に南无阿弥陀仏を
いただくばかりです。そこでは、私のいのちは、
私のもの、私物ではなくて、阿弥陀如来さまの光を
受けるいのちであります。


そして、阿弥陀さまの別け隔てのない光を仰ぐとき、
すべてのいのちあるものが、その光の中にあることを
知らされます。


 お念仏申しつつ、いのちの大切さを思い、身近な
ところから行動に移してまいりましょう。」

先週と今週、二回にわたって、ご正忌報恩講での
ご門主さまのご親教の要約をご紹介しました。



妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、二月二十二日に新しい内容に変わります。