第471回 自他合一

  
平成14年 1月31日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。

こんな文章に出会いました。
石田慶和先生がお書きいただいた
「本願」についての文章です。

西田幾多郎先生の著作「善の研究」に収められた
宗教論のあとに、「知と愛」という文章があります。
そこにはこういうことが記されています。


「我々が物を愛するといふのは、自己をすてて他に
 一致するの謂である。自他合一、其間一点の間隔
 なくして始めて真の愛情が起るのである。
 ・・・親が子となり子が親となり此処に始めて親子の
 愛情が起るのである。

 親が子となるが故に子の一利一害は己の利害の様に
 感ぜられ、子が親となるが故に親の一喜一憂は己の
 一喜一憂の如くに感ぜられるのである。

 我々が自己の私を棄てて純客観的即ち無私となれば
 なる程愛は大きくなり深くなる。
 ・・・仏陀の愛は禽獣(きんじゅう)草木にまでも
 及んだのである。」      


この文章は、ただ親子の関係をいうだけのものではなく、
まさに仏と衆生の関係をかたるものにほかならないように
思います。
それは、最後の「仏陀の愛は禽獣草木にまで及んだ」と
いう言葉からもわかります。


 仏が慈悲のはたらきを発動するということは、仏が仏と
してのおのれを棄てて衆生と一つになるということでしょう。
その表現として、仏が一修行者として修行をする、それが
親が子となるということです。

衆生の本当の願いを察して発願修行するということかも
しれません。それが法蔵菩薩の発願修行ということの
意味です。


 その仏の心を衆生が知って、仏の心にふれる、
仏の心を思う、ということが「信心」にほかならないのです。
子は子としてのおのれを棄てて親の心にふれる、そこに
慈悲の働きが、生きたはたらきとして親と子の間、仏と衆生
の間に通じるということがおこるのではないでしょうか。


子が親になるといっても、衆生が直ちに仏になるということ
ではありません。
それはまさに衆生が仏の心に触れるということです。


やるせない仏の慈悲の心に触れて、衆生が自我の主張を
棄てる、己を空しうして仏の心を己の心とするということが、
子が親になるということです。


そこにはじめて仏と衆生の心が通じ合うのです。
子は親の心にふれて親の慈悲を知るのです。
それが如来回向の「信心」を獲るということではないでしょうか。


「至心信楽おのれを忘れて弥陀をたのむ」という言葉が
ありますが、まさに己を忘れるところに、仏のこころと
ひとつになるという境地が開かれるのです。


人間の関係においては、親が親であることを棄てる、子が
子であることを棄てるということはほとんど不可能なことです。
親は親の立場を固辞しますし、子は子の立場を固執します。
しかし「さとり」の世界では、親が親であることを棄てるという
ことが可能なのです。
人間の世界では、親の愛といっても、それはとらわれにしか
すぎません。

「さとり」の世界では、仏は衆生のために己を棄てることが
できる、いやそれこそが仏としてのありかたなのです。


そのことを知らせるための物語が、法蔵菩薩の発願修行と
いうことではないでしょうか。


親鸞聖人の教えでは「本願を信じる」と言うことが決定的な
意味をもつのです。


それは「本願を信じる」ということによって、私が仏の慈悲の
働きにふれることができるからです。
仏のはたらきにふれることがなければ、私たちの救われる
道はありません。


それが「他力」であり「本願力」ということです。

蓮如上人はこれを「聖人一流の御勧化のおもむきは、
信心をもって本とせられ候ふ」とご文章でおっしゃっています。


妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、2月7日に新しい内容に変わります。



     宗報  平成14年 1月号
    現代教学の課題  現代の教学のテーマ
         「本願」について(二)
       石田 慶和 龍谷大学名誉教授
               仁愛大学学長
             より一部抜粋しました。