第490回 生かされている

  平成14年 6月13日〜

妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。
近ごろは、食べ物を包む、包装がいろいろと工夫されています。
昔は、ワラに包まれていた納豆も、今では、一人分ずつ、
紙のパックなどに詰められ、しかも、味を付ける調味料の
小さな袋がちゃんと付けてあり、それをかけ、混ぜあわせると
簡単に糸を引き、昔のような独特の臭いもほとんどありません。


奇麗に包まれたこの納豆の蓋を開いて、その内側に
引き詰めてある紙をよく見ると、小さな穴が、いくつも空けて
ありました。


納豆は生きているため、呼吸が出来るようにとの、
こころ配りなのでしょう。


植物の豆は、収穫して時間が経っていますが、ナットウ菌は
ちゃんと生きて、働いているためなのでしょう。



 生き物というと動物だけを考えていますが、納豆も
生きているのだと気づかされました。

そう考えていくと、私たちが生きていくためには、
多くの生き物の命をいただいて、生きていることを、
改めて考えさせられます。


野菜も果物も虫食いのものは、まったく目につかなく
なりました。
これは、大事な農作物を虫が食べてしまわないように農薬を
使って、駆除しているためでしょう。


駆除というと、言葉はきれいですが、生きていくために
一生懸命、餌を探している虫たちの命を奪っていることに
違いはありません。


人間が美味しいものは、他の生き物にも美味しい食べ物の
はずです。
ところが、人間は、自分のものだからと、他の生き物を
追い払うだけではなく、その命までも奪ってしまっているのです。


直接口にする、魚や鶏、牛などの動物だけではなく、
私が生きていくためには、害虫だと、人間が勝手に思い込み、
その命を奪って平気でいるのです。こうした命は、数限り
ないことに気づかされます。     



夏になるとともに、蚊がたくさん発生しています、
一生懸命生きていくために餌を探し求めているのに、
私たちは邪魔者だと、蚊取り線香を使い、刺されたと怒り、
たたき殺しています。


人間が快適に生きていくためには、多くの命を
犠牲にしているのです。


私ひとりを生かすために、何億、何十億もの生き物が、
ことによると、もっと多い単位の何百兆、何千兆もの
生き物が命を投げ出していただいたお蔭で、この私は
生かされているのだろうと、感じます。


この私は自分ひとりの力ではなく多くの生き物、多くの
人びとの、数え切れない、力によって生かされていると
気づかせていただき、お蔭さまですと、感謝と喜びの思いを、
南无阿弥陀仏のお念仏を口にしながら、こころゆくまで
味わわせて頂きたいものです。


妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、6月20日に新しい内容に変わります。