第500回 川上清吉さん
平成14年 8月22日〜
妙念寺電話サービスお電話ありがとうございます。
この電話サービス今回でちょうど、500回目を迎えました。
長い間、いろいろと、ご支援いただきまして誠に
有り難うございます。お陰で大きな節目を迎えることが
できました。
ところで、ここ佐賀に川上清吉先生という有り難い方が、
いらっしゃったことをご存じでしょうか。
島根県のご出身の方で、佐賀大学の前身、
佐賀師範学校の先生でしたが、学校の中だけではなく、
いろいろの所に出掛けて親鸞聖人のお話しをして
いただいた、ありがたいお念仏の方です。
50年以上たった今でも、その教え子たちが、
大和町の常立寺さんに毎年集まって、先生を偲ぶ会を
開いておられます。
その川上先生の著作の中にこんな所がありました。
しぶ柿問答という文章です。
ある友人が、こんなことを、私にたずねた。
ーー君は宗教に入ったということだが、全体、
宗教というのは、何を求めるものなのか。
それに対して、私はこんな答えをした。
何かを求めて宗教に入ったかも知れないが、
しかし、その「求める」ということの無くなるのが、
それが宗教だということが、このごろわかって来た。
ーーでは、宗教は何の役に立つものなのかーーーと、
その人はいう。
何の役に立つというようなことは、よう言わないが、
その「役に立つ」という心が、消されてゆくのが、
宗教だということは言っていいと思うーーと答えた。
ーー信仰というものは、何かありがたいものだと言うが、
ほんとうか。
そうだな。うそとも、ほんとうとも言えないが、
しかしはっきり言っていいことは「ありがたい」という
気持などを問題にしたり、追求したりしている間は、
ほんものの信仰でないということだ。
ーー信心というものは、苦しい時の慰めになると
いうようなものなのか。
なるとも、ならぬとも、すぐには言えない。
しかし、胸をやすめるつもりで、念仏を称えたり
するのは、信心を手段にしているので、誰もが一番
警戒しなければならない。あやまりだと思う。
ーー仏の存在などということが、正直に信じられるのかね。
という突っこんだ言い方をしてきた。
それで、自分が信じるとか、信じないとかいうことが
問題になるのは、信仰とか、まるで次元のちがった
世界に居てのことだから、答えられないと、私も
はずむような気持ちになった。・・・・・・・と続きます。
妙念寺電話サービスお電話ありがとうございました。
次回は、8月29日に新しい内容に変わります。